旧閑谷学校

閑谷學校址[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

吉永駅の東南2.5km、伊里村閑谷の県立閑谷中学校構内にあります。江戸時代前期の寛文6年(1666年)岡山藩主池田光政の創立で、同10年(1670年)藩士津田永忠に経営にあたらせ、領内各所に設けた手習所をここに併せて庶民子弟の教養を向上させました。維新後いったん廃止され、また私学として復興するといった変遷を経て現在に至りましたが、往時のままに石塀が長く巡り、講堂、聖堂、聖門等が残っています。

飲室門 現在、中学校正門となっています。旧校舎の門で、江戸時代中期の元禄14年(1701年)に造られました。

石塀 元禄14年の築営となります。

講堂 元禄14年の改葉で内部板敷、四方に火灯窓を開いています。屋根入母屋造、伊部焼(備前焼)の瓦葺です。

聖堂 大成殿、貞享元年(1684年)の改築となり、入母屋造、瓦葺、内部に孔子像を安置しています。前面に聖門あり、大門または鶴鳴門と呼ばれます。

旧芳烈祠 聖堂の東に並んでいて現在、閑谷神社となっています。貞享3年(1686年)の建築で、池田光政を祀り、継嗣綱政の造営です。明治4年(1871年)輝政、利隆を合祀し、同8年(1875年)県社に列されました。講堂、聖堂等と同じく入母屋造、伊部焼瓦葺の壮麗な建物です。

椿谷 芳烈祠の東隣にあります。元禄15年(1702年)になります。光政の髭、髪、爪、歯、臍帯を埋めた小塚があって前面にツバキを植えています。

津田永忠宅跡 椿谷の東約300m、永忠晩年の邸跡で、現在、碑が建っています。

黄葉亭 宅跡の東南約100m、渓流に臨んだ幽邃な境地にあります。文化年間(1804~1818年)諸士休養のために設けた茶室で、頼山陽がかつて遊んで「黄葉亭記」を作るにおよんでその名が知られるようになりました。

石門 祠堂の南1km、往時学校南の正門で、元禄10年(1697年)の構築です。道の左右に両柱相対して建っています。

津田永忠宅跡、黄葉亭、石門いずれも学校とともに史蹟に指定されています。

※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行
閑谷学校

令和に見に行くなら

名称
旧閑谷学校
かな
きゅうしずたにがっこう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
岡山県備前市閑谷784
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

吉永驛の東南二粁半、伊里村閑谷の縣立閑谷中學校構內にある。寬文六年岡山藩主池田光政の創立で、同十年藩士津田永忠をして專ら經營に當らしめ、領內各所に設けた手習所をこゝに倂せて庶民子弟の敎養をなさしめた。維新後一旦廢せられ、また私學として復興せる等の變遷を經て現今に至つたが、往時の儘に石塀長く繞り、講堂、聖堂、聖門等が存する。

飮室門 今、中學校正門となる。舊校舍の門で、元祿十四年に造られた。

石塀 元祿十四年の築營にかゝる。

講堂 元祿十四年の改葉で內部板敷、四方火燈窓を開く。屋根入母屋造、伊部燒(備前燒)の瓦葺である。

聖堂 大成殿、貞享元年の改築にかゝり、入母屋造、瓦葺、內部に孔子像を安置して居る。前面に聖門あり、大門または鶴鳴門と呼ばれる。

舊芳烈祠 聖堂の東に竝び今、閑谷神社となる。貞享三年の建築で、池田光政を祀り、繼嗣綱政の造營てある。明治四年輝政、利隆を合祀し、同八年縣社に列せられた。講堂、聖堂等と同じく入母屋造、伊部燒瓦葺の壯麗なる建物である。

椿谷 芳烈祠の東鄰にある。元祿十五年に成る。光政の髭、髮、爪、齒、臍帶を埋めた小塚ありて前面に椿樹を植ゑて居る。

津田永忠宅址 椿谷の東約三〇〇米、永忠晚年の邸址で、今、碑が建つて居る。

黃葉亭 宅址の東南約一〇〇米、溪流に臨んだ幽邃な境地にある。文化年閒諸士休養のため設けた茶室で、賴山陽曾て遊んで「黃葉亭記」を作るに及んでその名顯はるゝに至つた。

石門 祠堂の南一粁、往時學校南方の正門で、元祿十年の構築である。道の左右に兩柱相對して建つて居る。

津田永忠宅址、黃葉亭、石門何れも學校と共に史蹟に指定せられて居る。

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