三千院

三千院[天臺宗]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

叡山電車八瀬の北5km、愛宕郡大原村にあり、途中大原村役場まで自動車の便があります。

この地は叡山の北麓にあって、昔は堂塔が並び立つ天台仏教の一根拠地でしたが、往時の古建築で現在残っているのは三千院のみです。平安時代の貞観年中(859~877年)僧承雲の開創、堀川天皇の頃から代々皇族相承の制となり、後醍醐天皇の時代には大塔宮も御入寺あり、明治維新の際には梨本宮もいらっしゃったことがあります。

本堂[国宝] 往生極楽院と称し、三間四面、単層、入母屋造、杮葺、妻入の建築で、寛和元年(985年)の建立とされています。外部は向拝をはじめおおむね後世のものに変わっていますが、内部は多く当初のままです。特に天井は珍しい舟底形で、その板には二十五菩薩の彩画が残っています。須弥壇は非常に低く、勾欄をめぐらし、螺鈿模様が施されています。様式は古いものですが壇そのものは近年作られたものです。

阿弥陀三尊坐像[国宝] 本堂に安置されています。本尊の前に相並んで座っているのは観音勢至二菩薩の像です。観音は両手に紫金の蓮台を捧げ、勢至は合掌し、ともに日本式の正座をした形相です。二菩薩の後に控えた本尊阿弥陀仏は上品下生の手相を示しつつ趺坐しています。かくて組み合わされた三尊一座の形相は藤原時代盛んに信仰された弥陀の来迎を現したものです。その様式は豊満な肉取りに一種優麗な極致を残し、よく藤原時代の特徴を示し、彫刻として来迎形の最古の遺品となっています。

なお書院には慈覚大師の作と伝わる国宝の不動明王立像(木造)があります。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行

令和に見に行くなら

名称
三千院
かな
さんぜんいん
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市左京区大原来迎院町540
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

叡山電車八瀨の北五粁、愛宕郡大原村にあり、途中大原村役場まで自動車の便がある。

この地は叡山の北麓にあつて、昔は堂塔櫛比して天臺佛敎の一根據地であつたが、常時の古建築の今日遣つて居るのは三千院あるのみである。當院は貞觀年中僧承雲の開創、堀川天皇の頃から世々皇族相承の制となり、後醍醐天皇の朝には大塔宮も御入寺あり、明治維新の際には梨本宮も居らせられたことがある。

本堂[國寶] 往生極樂院と稱し、三閒四面、單層、入母屋造、杮葺、妻入の建築で、寬和元年の建立とされ居る。外部は向拜をはじめ槪ね後世のものに變つて居るが、內部は多く當初のまゝである。殊に天井は珍しい舟底形で、その板には二十五菩薩の彩畫が殘つて居る。須彌壇は甚だ低く、勾欄をめぐらし、螺鈿模樣が施されて居る。樣式は古いが壇そのものは近年作られたものである。

阿彌陀三尊坐像[國寶] 本堂に安置されて居る。本尊の前に相竝んで坐つて居るのは觀音勢至二菩薩の像である。觀音は兩手に紫金の蓮臺を捧げ、勢至は合掌をなし、ともに日本式の正座をした形相である。二菩薩の後に控へた本尊阿彌陀佛は上品下生の手相を示しつつ趺坐して居る。かくて組合はされた三尊一座の形相は藤原時代盛に信仰された彌陀の來迎を現はしたものである。その樣式は豐滿な肉取りに一種優麗な極致を存し、よく藤原時代の特徵を示し、彫刻として來迎形の最古の遺品たるを失はない。

尙書院には慈覺大師の作と傳ふる國寶の不動明王立像(木造)がある。

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