詩仙堂

詩仙堂[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

叡山電車一乗寺の東1.5km、一乗寺小谷町にあり、石川丈山隠棲の山荘です。白砂を敷き詰めた庭の中央に瓦葺、平屋建小楼屋を附属した建物で、玄関、仏間、読書の間、客間、詩仙の間等があります。詩仙の間はほぼ完全に当時の遺構を残していて、部屋は四畳半敷、天井はアンペラに丸竹の竿縁天井で、四方の長押上の小壁に漢、晋、唐、宋三十六詩仙の図像を嵌装し、いずれも狩野探幽の筆になり、各々丈山の題賛があります。部屋の東側に床の間、違棚、押入があります。北側はもと壁で、前庭に向かって扇形の窓を開いていました。今一枚嵌込の襖となって、木製扇形に獅子に草花の透彫の窓の遺構を陳列しているのがそれです。西側は襖で玄関次の長五畳の間に通じ、南側に明障子を立て縁側を隔てて庭に面しています。縁端に擬宝珠を付けた勾欄があり、また長五畳の間から縁側に出る杉戸には蘇武の像が描かれています。長五畳の間の上層に中二階があります。さらにその上層は嘯月楼と名付けられた三畳半の小室で、化粧屋根裏、四方に窓を開き眺望に適します。庭は一隅に飛泉を懸け小塔あり、瀟洒な趣をもっています。丈山ははじめ徳川家康に仕え大阪役に従いましたが、先駆けして外されてから京都に退隠し、藤原惺窩の門に遊びました。寛永13年(1636年)ここに堂を建てて隠棲し、日本の三十六歌仙に擬して中国詩仙の図像を室内に掲げて詩仙堂と号し風月を楽しみました。のち享保年中(1716~1736年)に霊元上皇がここに御幸され、以来洛北の名勝として世に知られるようになりました。現在の建物は詩仙堂を除くほかは、皆後世の改築もしくは増築を経たものですが、詩仙の間はよく寛永頃の一般住宅建築の遺構を伝え、他の諸堂にも旧材、旧建具の用いられているものがあります。文山遺愛の陳眉公琴、竹如意、残月硯、探幽筆丈山寿像画幅などがあり、丈山自作となる扁額は表門、中門 嘯月楼等に掲げられたほかおおよそ10面で、これらの遺品は毎年5月23日の丈山忌に陳列して観覧に供しています。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行

令和に見に行くなら

名称
詩仙堂
かな
しせんどう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市左京区一乗寺門口町27
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

叡山電車一乘寺の東一粁半、一乘寺小谷町にあり、石川丈山隱棲の山莊である。白砂を敷き詰めた庭の中央に瓦葺、平屋建小樓屋を附屬した建物で、玄關、佛閒、讀書の閒、客閒、詩仙の閒等あり。詩仙の閒は略完全に當時の遺構を存し、室は四疊半敷、天井はアンペラに丸竹の竿緣天井で、四方の長押上の小壁に漢、晉、唐、宋三十六詩仙の圖像を嵌裝し、何れも狩野探幽の筆に成り、各々丈山の題贊がある。室の東側に床の閒、違棚、押入あり。北側はもと壁で、前庭に向つて扇形の窓を開いて居た。今一枚嵌込の襖となつて、木製扇形に獅子に草花の透彫の窓の遺構を陳列して居るのがそれである。西側は襖で玄關次の長五疊の閒に通じ、南側に明障子を立て緣側を隔てゝ庭に面して居る。緣端に擬寶珠を附した勾欄あり、また長五疊の閒から緣側に出づる杉戶には蘇武の像が描かれて居る。長五疊の閒の上層に中二階あり。更にその上層は嘯月樓と名付けられる三疊半の小室で、化粧屋根裏、四方に窓を開き眺望に適する。庭は一隅に飛泉を懸け小塔あり、瀟洒たる趣を有して居る。丈山ははじめ德川家康に仕へ大阪役に從つたが、先驅けして黜けられてから京師に屏居し、藤原惺窩の門に遊んだ。寬永十三年こゝに堂を建てゝ隱棲し、我が國の三十六歌仙に擬して支那詩仙の圖像を室內に揭げて詩仙堂と號し風月を樂しんだ。のち享保年中に靈元上皇こゝに御幸あらせられ、爾來洛北の名勝として世に聞ゆるに至つた。現時の建物は詩仙堂を除く外は、皆後世の改築若しくは增築を經たものであるが、詩仙の閒はよく寬永頃の一般住宅建築の遺構を傳へ、他の諸堂にも舊材、舊建具の用ゐらるゝものがある。文山遺愛の陳眉公琴、竹如意、殘月硯、探幽筆丈山壽像畫幅等あり、丈山自作に係る扁額は表門、中門 嘯月樓等に揭げられた外凡そ十面で、これ等の遺品は每年五月二十三日の丈山忌に陳列して觀覽に供して居る。

洛北のみどころ