尚古集成館
昭和初期のガイド文
鹿児島駅の東北2.5km、市内吉野にあり、自動車の便があります。石造平屋建、面積900m²(273坪)あり、堅牢な構造です。もと島津斉彬が軍備の充実と産業の振興を図るため江戸時代末期の嘉永5年(1852年)に設立した製作所で、安政4年(1857年)集成館と命名されました。当時主として鋳砲、製鉄、機械製造、ガラス、陶磁器、農具等の製作等を行いましたが、文久3年(1863年)7月、薩英戦争の際砲火のためいったん灰燼に帰したのを島津忠義が再興を企て、蒸気鉄工機械を長崎のイギリス人から購入し、集成館内に機械所を設け、慶応元年(1865年)3月竣成し、銃砲その他を製作し、以来大正4年(1915年)まで鉄工場として蒸気機関その他の機械類の製作を継続しました。大正12年(1923年)島津忠重が旧館を修築して現称に改め、斉彬、久光、忠義の事績を徴する資料を主とし、その他薩藩関係の各種資料を蒐集陳列し、昭和2年(1927年)から市の経営の下に有料で公開しています。総点数約1,500点におよび、維新史および近世文化史の資料を多数所蔵し、ほかでは観られないものが多いところです。その主要のものを挙げると次の通りです。
- 葡萄牙鉄砲 室町時代の天文年間(1532~1555年)種子島に伝来したもの 1挺
- 種ヶ島鉄砲 八板金兵衛作 1挺
- 島津斉彬筆羅馬字日記 江戸時代末期の嘉永初年(1848年)のもの 1帖
- 薩摩版および薩摩関係刊書 58種
- 薩摩陶器、磁器類 44点 安土桃山時代の文禄年間(1592~1596年)、島津義弘が朝鮮陶工金海に瓷器を製作させ、帖佐、加治木に窯業を奨励したことに始まります。家久、斉彬、忠義がまたいずれも改良を加えました。
- 薩摩硝子 50点 弘化年間(1844~1848年)島津斉興の時、江戸の工人四本亀次郎を招き、中村製煉所にて製造したものに始まり、斉彬の時製造所を集成館に移し、紅硝子、水晶硝子、板硝子を製造するに至りました。
- 旧集成館使用の旋盤および削盤 2台 西暦千八百六十三年(文久3年)の刻銘があります。
- 旧紡績所使用器械の一部 数種 慶応元年(1865年)新納刑部五代友厚渡英の際、マンチェスターのブラット会社から購入したものの一部です。同3年から磯に工場が建設されました。
館の西南300mに紡績所跡の記念碑があり、そばに明治天皇御駐蹕趾碑、照国公製艦記念碑等が建っています。
令和に見に行くなら
- 名称
- 尚古集成館
- かな
- しょうこしゅうせいかん
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 鹿児島県鹿児島市吉野町9698-1
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
鹿兒島驛の東北二粁半、市內吉野にあり、自動車の便がある。石造平屋建、面積九アール(二百七十三坪)を有し、堅牢な構造である。もと島津齊彬が軍備の充實と產業の振興を圖らんがため嘉永五年設立した製作所で、安政四年集成館と命名せられた。當時主として鑄砲、製鐵、機械製造、硝子、陶磁器、農具等の製作等を行つたが、文久三年七月、薩英戰爭の際砲火のため一旦灰燼に歸したのを島津忠義これが再興を企て、蒸氣鐵工機械を長崎の英人より購入し、集成館內に機械所を設け、慶應元年三月竣成し、銃砲その他を製作し、爾來大正四年まで鐵工場として蒸氣機關その他の機械類の製作を繼續した。大正十二年島津忠重舊館を修築して現稱に改め、齊彬、久光、忠義の事績を徵する資料を主とし、その他薩藩關係の各種資料を蒐集陳列し、昭和二年より市の經營の下に有料で公開して居る。總點數約千五百點に及び、維新史及近世文化史の資料を多數に藏し、他所で觀られないものが多い。その主要のものを擧げると左の通りである。
- 葡萄牙鐵砲 天文年閒種子島に傳來せるもの 一挺
- 種ケ島鐵砲 八板金兵衞作 一挺
- 島津齊彬筆羅馬字日記 嘉永初年のもの 一帖
- 薩摩版及薩摩關係刊書 五八種
- 薩摩陶器、磁器類 四四點 文祿年閒、島津義弘朝鮮陶工金海をして瓷器を製せしめ、帖佐、加治木に窯業を奬勵せしに始まる。家久、齊彬、忠義亦何れも改良を加へた。
- 薩摩硝子 五十點 弘化年閒島津齊興の時、江戶の工人四本龜次郞を招き、中村製煉所にて製造したのに始まり、齊彬の時製造所を集成館に移し、紅硝子、水晶硝子、板硝子を製するに至つた。
- 舊集成館使用の旋盤及削盤 二臺 西曆千八百六十三年(文久三年)の刻銘がある。
- 舊紡績所使用器械の一部 數種 慶應元年新納刑部五代友厚渡英の際、マンチエスターのブラツト會社から購入したものゝ一部である。同三年から磯に工場が建設せられた。
館の西南三〇〇米に紡績所址の記念碑があり、傍に明治天皇御駐蹕趾碑、照國公製艦記念碑等が建つて居る。