西郷隆盛終焉の地
西鄕南洲終焉地
昭和初期のガイド文
市電岩崎谷下車、山下町岩崎谷の入口で、南洲墓地の西南0.5kmにあたり、明治32年(1899年)9月に建てられた記念碑があります。明治10年(1877年)9月24日未明官軍は兵を集中して迫り、隆盛は将士を率いて洞窟を出て谷を下りましたが、流弾にあたってついに別府晋介に介錯を命じて果てました。51歳。桐野利秋、村田新八始め諸将士は奮戦の後、みな岩崎谷で討死しました。隆盛が流弾にあたったのは洞窟と終焉地との途中にある現在の岩崎谷荘の庭前のあたりであったといいます。
※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 西郷隆盛終焉の地
- かな
- さいごうたかもりしゅうえんのち
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 鹿児島県鹿児島市城山町
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
市電岩崎谷下車、山下町岩崎谷の入口で、南洲墓の西南半粁に當り、明治三十二年九月建つる所の記念碑がある。明治十年九月廿四日未明官軍兵を集中して薄り、隆盛諸將士を率ゐて洞窟を出で、谷を下つたが、流彈に中りて遂に別府晉介に介錯を命じて果てた。歲五十一。桐野利秋、村田新八始め諸將士奮戰の後、悉く岩崎谷に於て討死した。隆盛の流彈に中つたのは洞窟と終焉地との途中にある現在岩崎谷莊の庭前の邊であつたと云ふ。