岸和田市

岸和田市
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

南海電車本線岸和田、蛸地蔵両駅の所在地です。大阪街道に沿って西の方は大阪湾に臨み、市街は狭長、東西約2.8km、南北約2.9km、面積約4km²、このほかに飛地があります。この地はもと岸といい、楠木正成の一族和田氏が城を築いてから岸の和田と呼ばれ、岸和田と変じました。明治20年(1887年)岸和田煉瓦綿業会社の創立以来工場が次第に増加しました。工産物の大部分は繊維工業品が占め、工産総額の8割あまりは綿糸、綿布で、これらに次ぐものは網、煉瓦等です。市中で最も繁華な通は本町、魚屋町、北町、堺町等です。人口は約3万5,000人。

この地はもと掃守卿に属した海辺で、建武年間(1334~1336年)楠木正成の一族和田高家がこの地に城を構えましたが、安土桃山時代の天正の頃(1573~1592年)中村一氏が新たに築城し、三好実休および小出秀政を経て江戸時代となり、江戸時代前期の寛永17年(1640年)岡部宣勝が入城し、以来代々居城し、明治維新に至りました。現在堀や石塁が遺存しています。港は江戸時代後期の寛政の頃(1789~1801年)海浜の蘆葦を刈り、泥砂を除き、波止を築き、漁舟の停泊できるようにしましたが、文化年中(1804~1818年)には灯台などが設けられ、文政13年(1830年)竣成しました。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
岸和田市
かな
きしわだし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府岸和田市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

南海電車本線岸和田、蛸地藏兩驛所在地。大阪街道に沿うて西の方大阪灣に臨み、市街狹長、東西約二粁八、南北約二粁九、面積約四方粁この外に飛地がある。當地はもと岸と云ひ、楠木正成の一族和田氏が城を築いてから岸の和田と呼ばれ、岸和田と變じた。明治二十年岸和田煉瓦綿業會社の創立以來工場次第に增加した。工產物の大部は纖維工業品が占め、工產總額の八割餘は綿絲、綿布で、これ等に次ぐものは網、煉瓦等である。市中最も繁華な通は本町、魚屋町、北町、堺町等である。人口約三萬五千。

この地もと掃守卿に屬した海邊で、建武年閒楠木正成の一族和田高家この地に城塞を構へたが、天正の頃中村一氏新に築城し、三好實休及小出秀政を經て江戶時代に及び、寬永十七年岡部宣勝入城し、爾來累代居城し、明治維新に及んだ。今濠及び石壘を遺存して居る。港は寬政の頃海濱の蘆葦を刈り、泥砂を除き、波止を築き、漁舟の碇泊に便ならしめたが、文化年中燈臺等設けられ、文政十三年竣成した。

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