堺市

堺市
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

大和川を隔てて大阪市の南に位置し、東西約4.4km、南北約4.5km、面積凡15km²あって、近年編入されたもとの向井、湊、舳松、三宝の4町村を含み、東部は洪積層の丘陵地、西部は沖積層の平地で、大阪湾に接しています。かつて外国に対する要港で、室町末期から安土、桃山時代にかけて大いに繁栄し、文化の中心地でした。産業は工業が最も大きく、綿糸、足袋、綿織物、工業用薬品、セルロイド、酒、刃物等を産しています。交通機関には南海鉄道の本線、阪堺線、高野線、阪和電鉄があり、また日本航空輸送研究所の大浜飛行場があります。市内で最も繁華な通は菅原神社の南門から宿院に至る山の口筋です。人口約12万あります。

この地はもと塩穴郷に属し、中世には堺浦と呼ばれ、摂河泉三国の境界に位置し、吉野朝の頃には重要な軍港でした。室町時代の明徳年中(1390~1394年)足利義満が山名氏清を守護職として、氏清がこの地に拠点を築き泉府と称しました。氏清滅亡後に大内義弘がこれに代わり、応永6年(1399年)幕府と事を構えて敗死しましたが、堺市は兵火に焼尽してしまいました。その後細川、三好等の守護を経て市街は発展し、唐船、蛮船が入津し、貨物の集散も盛んで貿易港として活躍し、また茶道、連歌等の名人を輩出する文化の都でもありました。江戸時代になって幕府の直轄地となり、奉行を置きましたが、外国貿易が長崎の一港に制限されたので、堺の繁栄は昔のようにはならず、刃物、鉄砲、鉛丹等特種工業が発達しました。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
堺市
かな
さかいし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府堺市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

大和川を隔てゝ大阪市の南に位し、東西約四粁四、南北約四粁五、面積凡一五方粁あつて、近年編入されたもとの向井、湊、舳松、三寶の四町村を含み、東部は洪積層の丘陵地、西部は沖積層の平地で、大阪灣に接して居る。嘗て外國に對する要津で、室町末期から安土、桃山時代にかけて大いに繁榮し、文化の一中心であつた。產業は工業が最要のもので、綿絲、足袋、綿織物、工業用藥品、セルロイド、酒、刃物等を產する。交通機關には南海鐵道の本線、阪堺線、高野線、阪和電鐵があり、また日本航空輸送硏究所の大濱飛行場がある。市內で最も繁華な通は菅原神社の南門から宿院に至る山の口筋である。人口約十二萬を有する。

この地はもと鹽穴鄕に屬し、中古堺浦と呼ばれ、攝河泉三國の境界に位し、吉野朝の頃には重要なる軍港であつた。明德年中足利義滿山名氏淸を守護職となし氏淸この地に築き泉府と稱した。氏淸滅亡後大內義弘これに代り、應永六年幕府と事を構へて敗死したが、堺市は兵火に燒盡した。その後細川、三好等の守護を經て市街發展し、唐船、蠻船入津し、貨物の集散盛にして貿易港として活躍し、また茶道、連歌等の名人輩出して文化の都でもあつた。江戶時代に及んで幕府の直轄地となり、奉行を置きしも、外國貿易が長崎の一港に制限せられたので、堺の殷盛は昔の如くならず、刃物、鐵砲、鉛丹等特種工業の發達があつた。

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