鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

鎌倉駅の東北200mに朱塗の第二鳥居があります。この鳥居から道路の中央に一段高くなった参道があり、左右の土手に桜樹を植え、第三鳥居のところまで続いています。この参道は段葛と呼ばれ、平安時代の寿永元年(1182年)源頼朝が鶴岡八幡宮から由比浜の大鳥居(大正12年震災のため大破)のあたりまで築造した参道、若宮大路の一部分です。第三の鳥居を入り左右に池を見て大臣山の麓に進み、右に若宮を見て石段を登ると鶴岡八幡宮の本宮に至ります。若宮は朱塗に輝く権現造です。江戸時代の建築で大正12年(1923年)の震災後修補されて新しくなっています。この若宮は平安時代の康平6年(1063年)源頼義が石清水の八幡宮を勧請して由比郷に建てたものを、治承4年(1180年)に頼朝が移したものです。鎌倉時代の文治2年(1186年)4月頼朝と夫人の政子が参詣して義経の妾である静御前に舞を舞わせ、静が「よし野山、みねのしら雪ふみ分けて、いりにし人のあとぞこひしき」と歌ったのもこの若宮の前でのことでした。若宮は建久2年(1191年)に焼失し、その後頼朝が後の山上に社殿を建築したのが今の鶴岡八幡宮で、これと同時に山下の若宮も再建され、山上、山下に両宮が並び立つこととなったものです。本宮参道の石段のそばに大きなイチョウがあります。承久元年(1219年)源実朝が大臣拝賀のため参詣の帰路、公暁に害されたのはこのあたりの石段でのこととされます。山上の社殿は頼朝創建後数度の火災に遭い、今の社殿は江戸時代の権現造で、正面に楼門、左右に廻廊が社殿を取り囲んでいます。総朱塗で蟇股などに極彩色を施した華美な建築です。

  • 宝物
  • 廻廊内に数百点の宝物を陳列して一般に観覧できるようになっています。次に主なものを記します。
  • 弁才天坐像[国宝] 寄木造胡粉彩色の像で、肉付き豊かで右手にバチ、左手に琵琶をささえ、蛾眉を描き、唇に紅を指し、左右の両足を曲げて投げ出し、胴をひねり、横坐りとなった裸体像です。その姿体は婉麗自由にして鎌倉時代の優秀な作で、右足の地付けに次の刻文があります。文永三年丙寅九月廿八日戊午 始造立之泰安置舞楽院 従五位下行左近衛将監中原朝臣光氏
  • 梨子地籬菊螺鈿蒔絵硯箱[国宝]一筥、全面にうるんだ金色を施し、さらに金粉を蒔き螺鈿と蒔絵とがよく調和しています。籬に菊を添えた意匠は前代から流行して来た菊花模様に絵画的趣味を与えたもので、後の蒔絵に広く流行する図案となりました。社伝に後白河法皇が源頼朝に下賜されたものであると伝えます。その事実は明かでありませんが製作年代は藤原末期か鎌倉初期で、その製作地は鎌倉ではなく、京都の名匠の手になったものです。
  • 沃懸地螺鈿杏葉蒔絵平胡簶[国宝]二個 鎌倉時代
  • 五衣[国宝]一領 白地に鳳凰の織文
  • 丹塗弓[国宝]一張
  • 菩薩面[国宝]一面
  • 舞楽面[国義]五面 蘭陵王、散手、貴徳、鯉口、貴徳番子、二の舞の五面でいずれも鎌倉代の作品として相当の作技を示し、関東において稀有の遺品です。
  • 糸巻太刀[国宝]一振 鞘梨子地菊花蒔絵
  • 太刀[国宝]一振 沃懸地に杏葉螺鈿
  • 鶴岡社務記録二巻[国宝]紙本黒書
  • 鶴岡八幡宮修営目論見絵図一鋪[国宝] 紙本墨書、安土桃山時代の天正19年(1591年)5月14日とあります。
  • 経筒 一個 青銅製 鎌倉時代の建久6年(1195年)の銘文があります。
※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行
鶴岡八幡宮

令和に見に行くなら

名称
鶴岡八幡宮
かな
つるがおかはちまんぐう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
備考
文中のイチョウの木は平成22年(2010年)に強風により倒れています。
住所
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の東北二〇〇米にして朱塗の第二鳥居に達する。この鳥居際より道路の中央に一段高くなつた參道があり、左右に土手を有し櫻樹を植ゑ、第三鳥居際まで續いて居る。この參道は段葛と稱し、壽永元年源賴朝が鶴岡社頭より由比濱の大鳥居(大正十二年震災のため大破)の邊まで築造した參道若宮大路の一部分である。第三の鳥居を入り左右に池を見て大臣山の麓に進み、右に若宮を見て石段を登ると鶴岡八幡宮の本宮に達する。若宮は朱塗に輝く權現造である。江戶時代の建築で大正十二年の震災後修補されて新しくなつて居る。この若宮は康平六年源賴義が石淸水の八幡宮を勸請して由比鄕に建てたものを、治承四年に賴朝が移したものである。文治二年四月賴朝及夫人政子が參詣して義經の妾靜に舞をまはしめ、靜が「よし野山、みねのしら雪ふみ分けて、いりにし人のあとぞこひしき」と歌つたのもこの若宮の賓前で起つたことである。若宮は建久二年に燒失し、その後賴朝が後の山上に社殿を建築したのが今の鶴岡八幡宮で、これと同時に山下の若宮も再建され、山上、山下に兩宮竝び立つことゝなつたのである。本宮參道の石段の傍に大なる公孫樹がある。承久元年源實朝が大臣拜賀のため參詣の歸路、公曉に害されたのはこの邊りの石段であつたと云ふ。山上の社殿は賴朝創建後數度の火災を蒙り、今の社殿は江戶時代の權現造で、正面に樓門、左右に廻廊が社殿を取り圍んで居る。總朱塗で蟇股などに極彩色を施した華美なる建築である。

  • 寶物
  • 廻廊內に數百點の寶物を陳列して一般に觀覽を許して居る。今左にその主なるものをかゝぐ。
  • 辨才天坐像[國寶] 寄木造胡粉彩色の像で、肉付豐かに右手に撥、左手に琵琶をさゝへ、蛾眉を描き、唇に紅を指し、左右の兩足を屈して投げ出し、胴をひねり、橫坐りの裸體像である。その姿體婉麗自由にして鐮倉時代の優秀なる作で、右足の地付に左の刻文がある。文永三年丙寅九月廿八日戊午 始造立之泰安置舞樂院 從五位下行左近衞將監中原朝臣光氏
  • 梨子地籬菊螺鈿蒔繪硯箱[國寶]一筥、全面にうるみたる金色を施し、更に金粉を蒔き螺鈿と蒔繪とがよく調和して居る。籬に菊を添へた意匠は前代から流行して來た菊花模樣に繪畫的趣味を與へたもので、後の蒔繪に廣く行はれる圖案となつた。社傳に後白河法皇が源賴朝に下賜されたものであると云ふ。その事實は明かでないが製作年代は藤原末期か鐮倉初期で、その製作地は鐮倉ではなく、京都の名匠の手になつたものである。
  • 沃懸地螺鈿杏葉蒔繪平胡簶[國寶]二個 鐮倉時代
  • 五衣[國寶]一領 白地に鳳凰の織文
  • 丹塗弓[國寶]一張
  • 菩薩面[國寶]一面
  • 舞樂面[國義]五面 蘭陵王、散手、貴德、鯉口、貴德番子、二の舞の五面で何れも鐮倉代の作品として相當の作技を示し、關東に於て稀有の遺品である。
  • 絲卷太刀[國寶]一振 鞘梨子地菊花蒔繪
  • 太刀[國寶]一振 沃懸地に杏葉螺鈿
  • 鶴岡社務記錄二卷[國寶]紙本黑書
  • 鶴岡八幡宮修營目論見繪圖一鋪[國寶] 紙本墨書、天正十九年五月十四日とあり。
  • 經筒 一個 靑銅製 建久六年の銘文あり。

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