鎌倉

鐮倉
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

藤原時代の末に平氏を亡ぼした源氏は、以前より東国で力を養っていたので、その将頼朝は幕府を鎌倉に開いて征夷大将軍となりました。以来源氏に続いて北条氏が起った後も、鎌倉は第一次武家政治の中心となり、おおよそ150年間継続しこの期間を鎌倉時代と呼んでいます。この時代は東国武士が京都の公卿に対し新鋭の気をもって起こると同時に、新たに元との交通も開けて禅宗が大陸から輸入されました。その結果、前代の繊細優美な趣味は一転して淡泊素朴豪健となりました。この新傾向は建築、彫刻、絵画などにおいて特にその特徴を現すこととなり、鎌倉の神社仏閣に残る彫刻、絵画などにその実例を見いだせるものが少なくありません。ただ建築については極めて少ないことが残念です。

室町時代にはその初期に関東管領をここに置いて東国を治めさせましたが、両上杉氏の擾乱があった後は荒廃していきました。

明治時代に入ってからは避暑、避寒の地として復活し、今は遊覧地、別荘地として栄えています。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
鎌倉
かな
かまくら
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
神奈川県鎌倉市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

藤原時代の末葉に平氏を亡ぼして起つた源氏は、前代から東國に力を養つて居つたので、その將賴朝は幕府を鐮倉に開き征夷大將軍となつた。爾來源氏に次で北條氏起り、鐮倉は第一次武家政治の中心となり、凡そ百五十年閒繼續しこの期閒を鐮倉時代と稱して居る。この時代は東國武士が京都の公卿に對し新銳の氣を以て起ると同時に、新に元との交通開けて禪宗が支那から輸入された。その結果前代の纖細優美な趣味は一轉して淡泊素朴豪健となつた。この新傾向は建築、彫刻、繪畫などに於て特にその特徵を現はすに至り、鐮倉の神社佛閣に遺存する彫刻、繪畫などにその實例を徵すべきものが少くない。たゞ建築に至つては極めて稀なるを遺憾とする。

室町時代にはその初期に關東管領をこゝに置いて東國を治めしめたが、兩上杉氏の擾亂あり後荒廢してまた振はざるに至つた。

明治年閒に入りては避暑、避寒の地として復活し、今は遊覽地、別莊地として榮えて居る。

鎌倉のみどころ