荷田春満旧宅

荷田東滿舊宅[指定史蹟]

昭和初期のガイド文

伏見稲荷大社境内の西側に接近した府社東丸神社の社務所となって残っています。旧宅の一部は春満の没後焼失しましたが、門、書院および北隅にある神事舎と名づけられた祭器庫一棟は、火災を免れて当時の遺構を残し、庭、井戸などにまた旧態をとどめています。春満はもと伏見稲荷の祠官で、江戸時代前期の寛文9年(1669年)伏見に生まれ、幼い頃から皇道復古の学に志し、享保中(1716~1736年)江戸に遊学し、徳川吉宗の知遇を得、のち京都に帰って元文元年(1736年)病んで亡くなりました。68歳。国学四大人の一人で、門下に賀茂真淵あり、維新後従三位を贈られました。東丸神社は明治16年(1883年)の創立で春満を祀ります。墓は東南300mの在山にあり、羽倉斎荷田東満呂之墓と題します。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行

令和に見に行くなら

名称
荷田春満旧宅
かな
かだのあずままろきゅうたく
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市伏見区深草藪之内町57
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

稻荷神社境內の西側に接近せる府社東丸神社の社務所となつて遺つて居る。舊宅の一部は東滿の歿後燒失したが、門、書院及び北隅にある神事舍と名づけられた祭器庫一棟は、火災を免れて當時の遺構を存し、庭、井戶等また舊態をとゞめて居る。東滿はもと伏見稻荷の祠官で、寬文九年伏見に生れ、夙に皇道復古の學に志し、享保中江戶に遊び、德川吉宗の知遇を得、のち京都にかへり元文元年病みて歿す。歲六十八。國學四大人の一人で、門下に賀茂眞淵あり、維新後從三位を贈られた。東丸神社は明治十六年の創立で東滿を祀る。墓は東南三〇〇米の在山にあり、羽倉齋荷田東滿呂之墓と題する。

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