水無瀬神宮

水無瀨宮[官幣中社]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

東海道本線山崎駅の西南1km、島本村広瀬にあります。後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇を祀っています。この地はもと水無瀬と呼ばれ、淀川に面した風光明媚な土地として知られ、平安時代の貞観の頃(859~877年)惟喬親王の別荘があり、後に後鳥羽上皇がここに離宮を置いてしばしば滞在されましたが、承久の乱で隠岐に移られ10年ほどで崩御されると、宮跡で御影を奉安して御影堂としました。後土御天皇が後の室町時代の明応3年(1494年)隠岐に使いを派遣して神霊を御影堂に迎えて祀り、水無瀬神と名付け、中納言藤原兼成とその子孫に奉らせました。明治6年(1873年)官幣中社となり、同じく承久の乱で阿波に移られた土御門、佐渡に移られた順徳両天皇の神霊を迎えて合祀し奉りました。社殿は江戸時代前期の寛永の頃(1624~1644年)、内侍所の旧材を賜り、御影堂神廟として造営したものといいます。

社務所[国宝] もと水無瀬家の客殿で、桁行六間、梁間五間、単層屋根人母屋造桟桟瓦葺、安土桃山時代の慶長年間(1596~1615年)の造営で、よく桃山時代の書院造の特質を発揮している。

茶室[国宝] 桁行7.8m、梁間4m、単層屋根四注造、茅葺、御茶屋風の建物で、社伝に後水尾天皇から水無瀬家へ下賜されたところと伝え、意匠、手法等に当時の卓絶した技術が見られます。

  • 宝物
  • 後鳥羽天皇宸筆御置文[国宝] 一巻
  • 後鳥羽天皇九月二十三日附宸翰[国宝] 一巻
  • 後鳥羽天皇御手印御置文[国宝] 一巻
  • 鎌倉時代の暦仁2年(1239年)2月9日の日付の下に御花押があり宸筆御文言の上に墨で左右の御手の御手形を押されたものです。以上3巻とも京都博物館出陳。

例祭は12月7日。3天皇崩御の日には別に私祭が行われ、また1月3日には松囃式神事が行われます。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行
水無瀬神宮茶室

令和に見に行くなら

名称
水無瀬神宮
かな
みなせじんぐう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府三島郡島本町広瀬3-10-24
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

同山崎驛の西南一粁、島本村廣瀨にある。後鳥羽天皇、土御門天皇、順德天皇を祀つて居る。この地はもと水無瀨と稱し、淀川に濱して風光明媚を以て知られ、貞觀の頃惟喬親王の別業あり、後、後鳥羽上皇こゝに離宮を營み給ひ、屢御幸があつたが、承久の變に隱岐に遷り給ひ、御在島約十年にして崩じ給ふや、宮址に御影を奉安して御影堂としたが、後土御天皇明應三年特に使を隱岐に遣して神靈を奉迎して御影堂に祀り、水無瀨神と稱し、中納言藤原兼成をして奉仕せしめられ、子孫相繼で祀事した。明治六年官幣中社に列し、同じく承久亂に阿波に遷り給うた後土御門、佐渡に遷らせ給うた順德兩天皇の神靈を迎へて合祀し奉つた。社殿は寬永の頃、內侍所の舊材を賜はり、御影堂神廟として造營せるものと云ふ。

社務所[國寶] もと水無瀨家の客殿で、桁行六閒、梁閒五閒、單層屋根人母屋造棧棧瓦葺、慶長年閒の造營で、よく桃山時代の書院造の特質を發揮して居る。

茶室[國寶] 桁行二十六尺、梁閒十三尺三寸、單層屋根四注造、茅葺、御茶屋風の建物で、社傳に後水尾天皇より水無瀨家へ下賜せられし處と稱し、意匠、手法等當時の卓絕した技術に成つて居る。

  • 寶物
  • 後鳥羽天皇宸筆御置文[國寶] 一卷
  • 後鳥羽天皇九月二十三日附宸翰[國寶] 一卷
  • 後鳥羽天皇御手印御置文[國寶] 一卷
  • 曆仁二年二月九日の日附の下に御花押があり宸筆御文言の上に墨で左右の御手の御手形を押し給うたものである。以上三卷とも京都博物館出陳。

例祭は十二月七日。三天皇崩御の日には別に私祭が行はれ、また一月三日には松囃式神事が行はれる。

淀川北岸のみどころ