能因法師の墓
能因法師墓(伊勢寺)
※現代の景観です。
昭和初期のガイド文
東海道本線高槻駅の北約1km、高槻町古曽部にあります。能因は名を橘永愷といい、この地に住んだので古曽部入道と称した藤原時代の歌人です。能因塚の上方に伊勢寺があります。能因と同時代の女歌人伊勢が晩年隠棲したところといいます。江戸時代前期の慶安年中(1648~1652年)高槻城主永井氏が能因塚とともにその古墳を修理し、双方に碑を立てて林羅山の撰文を刻しました。
※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 能因法師の墓
- かな
- のういんほうしのはか
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 大阪府高槻市古曽部町3
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
同高槻驛の北約一粁、高槻町古曾部にあり。能因名は橘永凱此地に住したので古曾部入道と稱した、藤原時代の歌人である。能因塚の上方に伊勢寺がある。能因と同時の女歌人伊勢が晚年隱棲した所と云ふ。慶安年中高槻城主永井氏能因塚と共にその古墳を修理し、雙方に碑を建てゝ林羅山の撰文を刻した。