松岳山古墳

松嶽山古墳[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

大軌桜井線大軌国分の東約1km、国分村松岳山(国分山)にあります。大和川の岸に沿った細長い丘陵の上に、縦に並んで9基の円形古墳があります。そのうちほぼ中央にある美山古墳は最も大形で、墳上には朱色がなお残っている石棺の蓋石が露出し、かつ棺の前後に古代中国の豊碑に似た円孔を中央に開けた板石が一枚、斜になって立っています。蓋石の上には明治10年(1877年)に発掘された際に立てられた円柱状の記念碑があります。美山の直ぐ西にある茶臼山古墳からは、現在麓の国分神社に保管されている中国古鏡三面を江戸時代前期の寛永6年(1629年)に出土したといい、また美山の東に連なる古墳のひとつからは、大形歯輪形石製品が出て、この東北に続く芝山丘陵にある古墳からもかつていろいろな遺物が出土しました。さらに古くこの丘の上の古墳のいずれかから出土したものに日本最古の銅製鍍金の墓誌があります。それは古くから考古小録に載せられ、現在男爵三井源右衛門氏が所蔵し、表裏に次の銘文があります。

惟船氏故 王後首者是船氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其寸異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯苑於松岳山上共婚安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基固窄永劫之宝地也

つまり応神天皇の時代に日本に帰化した王仁の後裔で、船氏の祖となった王辰爾の子、王後首の墓誌です。これによりこの丘の上の古墳が船氏代々の墳墓であると推定されています。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
松岳山古墳
かな
まつおかやまこふん
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府柏原市国分市場 国分神社内
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

同大軌國分の東約一粁、國分村松嶽山(國分山)にある。大和川の岸に沿うた細長い丘陵の上に、縱に竝んで存する九基の圓形古墳がある。そのうち略々中央にある美山古墳は最も大形で、墳上には朱色の尙殘存して居る石棺の蓋石が露出し、且つ棺の前後に支那古代の豐碑に似た圓孔を中央に穿つた板石が一枚宛、斜になつて立つて居る。蓋石の上には明治十年に發掘された際に建てられた圓柱樣の記念碑がある。美山の直ぐ西にある茶臼山古墳からは、今麓下の國分神社に藏する支那古鏡三面を寬永六年に出土したと云ひ、また美山の東に連なる古墳の一からは、大形齒輪形石製品が出で、この東北に續く芝山丘陵にある古墳からも曾て諸種の遺物が出土した。更に古くこの丘上の古墳の何れからかの出土品に我が國最古の銅製鍍金の墓誌がある。それは早く考古小錄に載せられ、今男爵三井源右衞門氏に所藏せられ、表裏に左の銘文がある。

惟船氏故 王後首者是船氏中祖 王智仁首兒那沛故首之子也生於乎娑陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其寸異仕有功勳 敕賜官位大仁品爲第三殞亡於阿須迦 天皇之末歲次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯苑於松嶽山上共婚安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓竝作墓也卽爲安保萬代之靈基固窄永劫之寶地也

蓋し應神天皇の朝に我が國に歸化した王仁の後裔で、船氏の祖となつた王辰爾の子、王後首の墓誌である。それでこの丘上の古墳が船氏累代の墳瑩であると推定せられて居る。

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