笠間城跡

笠閒城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

笠間駅の東北3km、笠間町城山。笠間稲荷社の東にある山城で本丸跡は東南の山頂に、二の丸および三の丸跡はその西北にあります。本丸跡は石塁を遺存し上に式内佐志能神社があり、社殿は旧天守閣の建物の残存したものを利用しています。二の丸および三の丸跡は東北側に空濠を二重にめぐらし、またところどころに石塁および土塁の跡を残存します。城は江戸時代中期の元文2年(1737年)宇都宮氏の族党藤原(笠間)時朝の築城となり、江戸時代には小笠原、浅野、井上、本荘の諸氏を経て、延享4年(1747年)牧野氏がここに封ぜられ、維新後廃城となりました。現在二の丸および三の丸跡は公園となっています。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
笠間城跡
かな
かさまじょうせき
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
茨城県笠間市笠間3613
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の東北三粁、笠閒町城山。笠閒稻荷社の東方にある山城で本丸址は東南の山頂に、二の丸及三の丸址はその西北にある。本丸址は石壘を遺存し上に式內佐志能神社あり、社殿は舊天守閣の建物の殘存したものを利用して居る。二の丸及三の丸址は東北側に空濠を二重にめぐらし、また所々に石壘及土壘の址を殘存する。城は元文二年宇都宮氏の族黨藤原(笠閒)時朝の築城にかゝり、江戶時代には小笠原、淺野、井上、本莊の諸氏を經て、延享四年牧野氏こゝに封ぜられ、維新後廢城となつた。今二の丸及三の丸址は公園となつて居る。

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