白旗城

白旗城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

上郡駅の北約6km、赤松村赤松にあります。千種川と鞍居川とに挟まれた高さ440mの丘陵で、白旗山(白幡山)と呼ばれ、西麓の千種川の流れる渓谷は赤松渓と呼ばれ、要害の山城です。はじめ赤松季則の築いたところで建武中興の業破れると、室町時代の延元元年(1336年)赤松則村(円心)この山城を拠点とし足利方となり、新田義貞がこれを囲みましたが落とすことができませんでした。その後、則祐義則、満祐、教康相次でここに居城しました。嘉吉元年(1441年)に満祐父子が、京師に将軍義教を倒し、走って城山城に籠もりましたが、細川、山名の諸将がこれを討ち、一族滅亡して廃城となりました。なお赤松渓を隔てて西にある苔縄城址は鎌倉時代の元弘2年(1332年)則村が大塔宮の令旨を奉じて、これによったところです。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
白旗城
かな
しろはたじょう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
兵庫県赤穂郡上郡町赤松
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

上郡驛の北約六粁、赤松村赤松にある。千種川と鞍居川とに挾まれた高さ四四〇米の丘陵で、白旗山(白幡山)と呼ばれ、西麓の千種川の流るゝ溪谷は赤松溪と呼ばれ、要害の山城である。はじめ赤松季則の築く所で建武中興の業破るゝや、延元元年赤松則村(圓心)この山城に據りて足利方となり、新田義貞これを圍んで陷すことを得なかつた。その後、則祐義則、滿祐、敎康相次でこゝに居城した。嘉吉元年滿祐父子、京師に將軍義敎を弑し、奔りて城山城に籠つたが、細川、山名の諸將これを討ち、一族滅亡して廢城となつた。尙赤松溪を距てゝ西方にある苔繩城址は元弘二年則村が大塔宮の令旨を奉じて、これによつた所である。

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