赤穂城址

赤穗城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

赤穂鉄道播州赤穂駅の西南1.5km。安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)備前の浮田氏の家臣がこの地を治め城を構えましたが、後に江戸時代前期の寛永8年(1631年)池田輝興が入部した際これを修築して赤穂城と名付けました。

正保2年(1645年)7月浅野長直がここに封ぜられ、家臣の近藤三郎左衛門正純および山鹿素行に大いにこれを修造させましたが、江戸時代中期の元禄14年(1701年)浅野長矩は自刃して封除され、翌年永井直敬がこれに代り、宝永3年(1706年)森長直が封ぜられ以来子孫相つぎ維新に至りました。城は関西の名城と称されましたが、現在わずかに本丸天守台その他の石塁、濠池を残し、ほかは壊されました。城内に大石神社、大石良雄旧宅跡、山鹿素行銅像その他があります。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
赤穂城址
かな
あこうじょうせき
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
兵庫県赤穂市上仮屋1424-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

赤穗鐵道播州赤穗驛の西南一粁半。天正年閒備前の浮田氏の家臣この地に治し城を構へたが、後寬永八年池田輝興入部の時これを修築して赤穗城と云つた。

正保二年七月淺野長直こゝに封ぜられ、家臣近藤三郞左衞門正純及び山鹿素行をして大にこれを修造せしめたが、元祿十四年淺野長矩自刃して封除せられ、翌年永井直敬これに代り、寶永三年森長直封ぜられ爾來子孫相つぎ維新に至つた。城は關西の名城と稱せられたが、今僅に本丸天守臺その他の石壘、濠池を殘し、他は毀たれた。城內に大石神社、大石良雄舊宅址、山鹿素行銅像その他がある。

赤穂のみどころ