明智藪
小栗栖明智籔
昭和初期のガイド文
山科駅の南5km、京阪電車六地蔵の東北1.5km、伏見区小栗栖にあり、途中まで自動車の便があります。明智光秀最期の地と伝え、現在俗に明智藪と呼ばれています。光秀は美濃の人、室町時代の永禄9年(1566年)初めて織田信長に仕え、しばしば戦功をたてましたが、のち信長に疎まれ、安土桃山時代の天正10年(1582年)本能寺で信長に謀叛を起こしましたが、その後山崎で豊臣秀吉の軍と戦い、敗れてこの地に逃げた際に土地の者に討たれました。57歳。
※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 明智藪
- かな
- あけちやぶ
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
山科驛の南五粁、京阪電車六地藏の東北一粁半、伏見區小栗栖にあり、途中まで自動車の便がある。明智光秀最期の地と傳へ、今俗に明智籔と稱して居る。光秀は美濃の人、永祿九年初めて織田信長に仕へ、屢々戰功をたてたるも、のち信長に疎んぜられ、天正十年叛して本能寺に信長を弑したが、尋で山崎に豐臣秀吉の軍と戰ひ、敗れてこの地に土地の人のために殺された、歲五十七。