醍醐寺

醍醐寺[眞言宗醍醐派總本山]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

山科駅の南約4.5km、伏見区醍醐にあり、山科駅および京阪電車宇治線六地蔵から自動車の便があります。

平安時代の貞観16年(874年)理源大師の創立になり、山上山下の二院に分かれ、山上を上醍醐、山下を下醍醐と称しています。醍醐天皇の臨幸があって以来朝野の尊信がますます厚く、堂塔伽藍が山上山下に充満するに至りました。室町時代の文明年間(1469~1487年)一時衰運を極めましたが、後に義演准后の時、豊臣秀吉の信仰を得、堂宇の再興をはかり、ほぼ旧観を取り戻すことができました。現在下醍醐の三宝院の建物および園池は、当時の創建あるいは修理になったものです。安土桃山時代の慶長3年(1598年)3月秀吉が花見の大園遊会を催したところは、三宝院から山腹鎗山に至る約400mにおよびその豪奢な様子は、当時三宝院の座主であった義演准后が書き留めておいた日記(国宝)によって詳しく知ることができます。

下醍醐に残る主要な建築には、三宝院の殿堂、金堂および五重塔があります。三宝院は元来醍醐寺の塔頭で修験道の本山でした。現在の建物は秀吉の命によって慶長3年に起工し、同11年(1606年)に竣成した書院造の殿堂で、玄関から葵の間、秋草の間、表書院、宸殿、純浄観、護摩堂等を合わせ、平面は非常に複雑で、寝殿造のおもかげもあり、随所によく桃山式を発揮しています。桃山時代における住宅建築の模範として貴重な遺構で、またその庭園も秀吉が鋭意造営させたもので、現在でも非常に秀麗で指定の名園です。

表書院[国宝] 当代における書院造の代表的遺構ですが、園池に臨み泉殿を付加したような形式で、多少寝殿造の遺風も加味されています。内部は三室に分かれ、その襖および壁には桃山時代の優秀な貼付絵があります。特に上段の間の絵は最もよく保存され、今なお当初のおもかげを残しています。すなわち床の間には大きな松を描き、そこから絵が続いて違棚のある部分の壁には雪を乗せた柳を描き、絵は室の北側から西側へ廻って春と夏の柳を描き、その間に花菖蒲などが美しく点綴されています。絵はさらに南側に廻って秋冬の柳が描かれています。その彩色は全体において剝落はしていますが、地に金銀截箔を散らした跡がよく残り、柳の葉には緑青の濃彩を施したあとが明らかに観てとれます。構図は軽妙の趣致に富み、描線の美しさに至っては今なお人を魅了するものがあります。筆者を長谷川等伯とする説もありますが明らかではありません。

庭園[指定名勝] 表書院の南にやや東西に長く築造されています。慶長3年醍醐の花見に際して秀吉の好みによって造られたもので、その完成が秀吉死去の後にあるにしても、秀吉の好みと桃山時代庭園の特徴を伝えるものとして著名です。3つの島をもつ池がこの庭園の大部分を占め、その西側に仮山を築き、南側から東側にかけて丘陵となり、これに鬱蒼とした樹木を繁茂させ、東南隅に滝を落しています。主要な橋はいずれも滝の方に向かい東西に架けられているので、庭園全体の勢いは東南に向かい、自然この方面が重心をなしています。なお庭園において特に注目すべきことは岩石が豊富に使用されていることで、秀吉が特に聚楽第から引かせた名石藤戸石は今も庭の向こうの池畔森の下に屹立しています。庭の様式は平安朝時代の寝殿式庭園に属するものといわれていますが、全く観賞本位のもので、もっぱら大書院からの観賞を目的として造られています。すなわち建築とよく調和を保ち、明るい豪奢な気分を現した桃山時代の代表的庭園です。

唐門[国宝] 庭園の西南隅にあり、伏見城の遺物とされ、三間一戸、檜皮葺で全体の格好もすぐれています。手法は繊細ですが、扉や両脇の板壁いっぱいに大きな菊桐模様の浮彫を嵌装し、それに漆箔を貼ったあとがあり、桃山時代一流の豪華さが偲ばれます。

純浄観[国宝] 表書院の東に建ち、登り廊をもって互いに接続し、東はまた渡廊をもって弥勒堂に続いています。単層、屋根は入母屋造、軒廻を桟瓦葺にしています。寺伝によるともと慶長3年3月秀吉が花見の際、鎗山に建てさせた仮殿であったといいます。

弥勒堂 純浄観の東にあり、三間五面、入母屋桟瓦葺、慶長年間の建築で、向拝の蟇股手狭には牡丹、菊に波などの優秀な彫刻があり、また軒廻り頭貫上には花卉、鳥類、波などの彫刻があります。彩色はありませんが非常に優美な彫刻です。本尊木造弥勒菩薩の坐像は鎌倉時代の優秀な作で、国宝に指定されています。

寝殿[国宝] 奥書院とも称し、純浄観および表書院の後方に建っている四間三面単層、屋根入母屋桟瓦葺で入側および落椽があり、内部は四間に分かれ、襖障子壁貼等には狩野派の墨画が描かれ、極めて藩酒な気分を現しています。上段の間には本床、灘棚、帳台飾が設けられ特にその違棚の意匠は非常に立派で、その他随所によく桃山式を発揮しています。桃山時代住宅建築の模範として得難い遺構です。

三宝院を出で仁王門を入ると金堂および五重塔が建っています。

金堂[国宝] 七間五面、単層入母屋造本瓦葺、鎌倉初期の建築ですが、慶長3年に豊臣秀吉が紀伊湯浅から移建したものです。正面に付加された向拝は桃山時代のものと思われますが、内部に入ると折上小組格天井や桝組などにはよく鎌倉時代の特徴を現しています。本尊薬師如来および両脇侍像は鎌倉時代の木造彫刻で、いずれも国宝に指定されています。

五重塔[国宝] 金堂の前方にあり、村上天皇の勅願により平安時代の承平6年(936年)に起工、天暦5年(951年)に竣工したもので、塔身の高さ約22m、相輪の高さ約12m、方三間、二層以上には腰に勾欄を廻らし、桝組は三手先を用いています。相輪は塔の全高に比して著しく長大ですが、それが少しも危なげなく非常に強壮安定の感を呈しています。初重の内部には極彩色をもって仏菩薩、僧侶、唐草等が一面に描かれています。この絵を普通壁画といっていますが、板に胡粉を塗ってその上に絵を描いたものなので板絵とすべきものです。中心柱および四方の羽目に描いたものは、金剛界および胎蔵界両部の曼荼羅および真言八祖大師の像です。

四天柱は今は素木となっていますが、これは中古木材を取り替えたもので、もとは他部同様彩画のあったことはもちろんです。唯惜むらくは現存の彩絵は剥落が著しく、八祖のようなものはほとんど見る影もなくなっています。しかし中心柱の一部に残存している胎蔵界大日の一区のようなものは、なおよく当初の面影を留めています。その画法においては一部分に暈法を用い、他はすべて繧繝法をもってし、地には切金文様を施しています。現在これらの模様をよく調べて見ると、前代における薬師寺東塔あるいは唐招提寺金堂内等の装飾文様の後を受け、次に来るべき鳳凰堂装飾の先駆をなすもので、藤原期の趣致を定めようとしています。

上醍醐は山下五重塔の後方から山を登ること4kmあまりにして達します。山上には薬師堂、経蔵、清滝堂、拝殿および五大堂があります。

薬師堂[国宝] 山上伽藍の中心となる建物で平安時代の保安2年(1121年)の建立、五間四面、単層入母屋造、檜皮葺で小さいながらよくまとまっています。内部は床漆喰塗で、そのうち三間二面を内陣として組子で仕切り、奥に仏壇を設けています。内陣の桝組間には本蟇股と称して中空の蟇股を用いています。これは中尊寺金色堂や宇治上神社本殿のものとともに当代に初めて現れ、蟇股変遷史上重要な位置を占めるものです。仏壇に安置された本尊薬師如来の坐像は、木造で藤原初期のものと見られ、会理僧都の作と伝え、広隆寺講堂の阿弥陀像とともに当代の傑作と称され国宝に指定されています。なお仏壇上には次の諸像があり、いずれも国宝で藤原時代の優秀な作です。

  • 日光月光菩薩立像 木造 二体
  • 帝釈天像 寺伝普賢菩薩像 木造 一体
  • 閻魔天像 木造 一体
  • 吉祥天立像 木造 一体

経蔵[国宝] 薬師堂の南方にあります。桁行三間、梁間二間、単層、屋根は四注造、杮葺、建久6年(1195年)すなわち鎌倉の初期に建てられた純粋な天竺様の建築です。内陣中央には経室があります。柱上部の長い粽、挿肘木、木鼻、扇棰をはじめ内部の唐戸など、よく天空様の特色を示しています。

清滝堂拝殿[国宝] 下から登って行くと第一に出会う建物です。三間七面、単層入母屋造妻人、檜皮葺で木割比較的細く、側柱は面取方柱で舟肘木を用い、柱間は蔀戸あるいは引違格子を用い、四方に椽を廻らしています。内部は何の装飾もなく、円い内陣柱が一列に並び、天井は竿椽天井ですっきりとして気持がよい。元来は神社の拝殿でありながら仏寺的住宅建築であるのが特に珍らしいものです。

五大堂[国宝] 薬師堂からさらに登った山頂にあります。慶長11年(1606年)の建築で、五間四面、入母屋造杮葺、内部は床瓦敷、天井は高く堂々と雄大なところがあり、多く唐様を加味し、技巧は拙いところがありますが、構架や組物に自由な新手法を用いています。

  • 宝物
  • 五秘密像[国宝] 一幅 絹本著色 鎌倉時代 三宝院蔵
  • 愛染明王像[国宝] 一幅 絹本著色 鎌倉時代 三宝院蔵
  • 扇面二曲屏風[国宝] 一双 紙本著色 俵屋宗達筆 醍醐寺蔵 宗話は慶長より寛永にかけて盛んにその技を振るい、大和絵に基づき好んで没骨法を使用して新基軸を出した江戸初期における大家です。この屏風は歴史的人物風景動物等を描いたものを貼り付けたもので、落款はありませんが一見して宗達の筆であることの明らかなもので、構図の妙、設色の豊麗潤沢、自由な筆致を振るって、得意の装飾的趣致を遺憾なく発揮しています。帝室御物の扇面散屏風とともに彼の傑作として名高いものです。
  • 舞楽図[国宝] 二曲屏風 一双 金地著色 俵屋宗達筆
  • 訶梨帝母像[国宝] 一幅 絹本著色 藤原時代末
  • 密教図像[国宝] 三十九点 紙本墨書 藤原時代乃至鎌倉時代 醍醐寺蔵
  • 調馬図[国宝] 六曲屏風 一双 紙本著色 伝山楽筆 醍醐寺蔵 京都博物館出陳
  • 虚空蔵菩薩像[国宝] 一幅 絹本著色 三宝院蔵 東京帝室博物館出陳
  • 醍醐花見短籍[国宝] 一帖 紙本墨書 豊臣秀吉以下一座各筆百三十一葉 三宝院蔵 京都博物馆出陳
※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行
醍醐寺五重塔 三宝院庭園

令和に見に行くなら

名称
醍醐寺
かな
だいごじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市伏見区醍醐東大路町22
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

山科驛の南約四粁半、伏見區醍醐にあり、山科驛及京阪電車宇治線六地藏より自動車の便がある。

貞觀十六年理源大師の創立にかゝり、山上山下の二院に分れ、山上を上醍醐、山下を下醍醐と稱して居る。醍醐天皇の臨幸ありて以來朝野の尊信益々厚く、堂塔伽藍山上山下に充滿するに至つた。文明年閒一時衰運を極めたが、後義演准后の時豐臣秀吉の信仰を得、堂宇の再興を計り、略々舊觀に復することを得た。今山下三寶院の建物及園池は、當時の創建或は修理になつたものである。慶長三年三月秀吉が花見の大園遊會を催した所は、三寶院から山腹鎗山に至る約四〇〇米に及びその豪奢の模樣は、當時三寶院の座主であつた義演准后が書き留めて置いた日記(國寶)によつて詳しく知ることが出來る。

山下に存する主要なる建築には、三寶院の殿堂、金堂及五重塔婆がある。三寶院は元來醍醐寺の塔頭で修驗道の本山であつた。現在の建物は秀吉の命によつて慶長三年に起工し、同十一年に竣成した書院造の殿堂で、玄關から葵の閒、秋草の閒、表書院、宸殿、純淨觀、護摩堂等を合せ、平面頗る複雜し、寢殿造の俤もあり、隨所によく桃山式を發揮して居る。桃山時代に於ける住宅建築の模範として貴重なる遺構で、またその庭園も秀吉が銳意經營せしめたもので、今も頗る秀麗にして指定の名園である。

表書院[國寶] 當代に於ける書院造の代表的遺構であるが、園池に臨み泉殿を附加せるが如き、多少寢殿造の遺風も加味されて居る。內部は三室に別れ、その襖及壁には桃山時代の優秀な貼付繪がある。殊に上段の閒の繪は最もよく保存され、今尙當初の俤を存して居る。卽ち床の閒には大なる松を描き、それより繪が續いて違棚のある部分の壁には雪を持つ柳を描き、繪は室の北側から西側へ廻つて春と夏の柳を描き、その閒に花菖蒲などが美しく點綴されて居る。繪は更に南側に廻つて秋冬の柳が描かれて居る。その彩色は全體に於て剝落はして居るが、地に金銀截箔を散らした跡がよく殘り、柳の葉には綠靑の濃彩を施したあとが明かに觀取される。構圖は輕妙の趣致に富み、描線の美はしさに至つては今尙人を魅するものがある。筆者を長谷川等伯となす說もあるが明かでない。

庭園[指定名勝] 表書院の南に稍東西に長く築造されて居る。慶長三年醍醐の花見に際して秀吉の好みによつて造られたものであるから、その完成が秀吉薨去の後にあるにしても、秀吉の好みと桃山時代庭園の特徵を傳ふるものとして名高い。三箇の島を有する池がこの庭園の大部分を占め、その西側に假山を築き、南側から東側にかけて丘陵となり、これに鬱蒼たる樹木を繁茂せしめ、東南隅に瀧を落して居る。主要なる橋は何れも瀧の方に向ひ東西に架せられて居るので、庭園全體の勢は東南に向ひ、自然この方面が重心を成して居る。尙庭園に於て特に注意すべきことは岩石の豐富に使用されて居ることで、秀吉が特に聚樂第から引かせた名石藤戶石は今も庭の向ふの池畔森の下に屹立して居る。庭の樣式は平安朝時代の寢殿式庭園に屬するものと云はれて居るが、全く觀賞本位のもので、專ら大書院よりの觀賞を目的として造られて居る。卽ち建築とよく調和を保ち、明るい豪奢な氣分を現はした桃山時代の代表的庭園である。

唐門[國寶] 庭園の西南隅にあり、伏見城の遺物と稱し、三閒一戶、檜皮葺で全體の恰好もすぐれて居る。手法は纖細であるが、扉や兩脇の板壁いつぱいに大きな菊桐模樣の浮彫を嵌裝し、それに漆箔を貼つたあとがあり、桃山時代一流の豪華さが偲ばれる。

純淨觀[國寶] 表書院の東に建ち、登り廊を以て相接續し、東はまた渡廊を以て彌勒堂に續いて居る。單層、屋根は入母屋造、軒廻を棧瓦葺にして居る。寺傳によるともと慶長三年三月秀吉が花見の際、鎗山に建てしめた假殿であつたと云ふ。

彌勒堂 純淨觀の東にあり、三閒五面、入母屋棧瓦葺、慶長年閒の建築で、向拜の蟇股手狹には牡丹、菊に波などの優秀な彫刻があり、また軒廻り頭貫上には花卉、鳥類、波などの彫刻がある。彩色は無いが頗る優美な彫刻である。本尊木造彌勒菩薩の坐像は鐮倉時代の優秀な作で、國寶に指定されて居る。

寢殿[國寶] 奧書院とも稱し、純淨觀及表書院の後方に建つて居る四閒三面單層、屋根入母屋棧瓦葺で入側及落椽があり、內部は四閒に分かれ、襖障子壁貼等には狩野派の墨畫が描かれ、極めて藩酒な氣分を現はして居る。上段の閒には本床、灘棚、帳臺飾が設けられ殊にその違棚の意匠は甚だ立派で、その他隨所によく桃山式を發揮して居る。桃山時代住宅建築の模範として得難い遺構である。

三寶院を出で仁王門を入ると金堂及五重塔婆が建つて居る。

金堂[國寶] 七閒五面、單層入母屋造本瓦葺、鐮倉初期の建築であるが、慶長三年に豐臣秀吉が紀伊湯淺から移建したものである。正面に附加された向拜は桃山時代のものと思はれるが、內部に入ると折上小組格天井や桝組などにはよく鐮倉時代の特徵を表はして居る。本尊藥師如來及兩脇侍像は鐮倉時代の木造彫刻で、何れも國寶に指定されて居る。

五重塔婆[國寶] 金堂の前方にあり、村上天皇の敕願により承平六年に起工、天曆五年に竣工したもので、塔身の高さ約二二米、相輪の高さ約一二米、方三閒、二層以上には腰に勾欄を廻らし、桝組は三手先を用ゐて居る。相輪は塔の全高に比して著しく長大であるが、それが少しも危な氣なく頗る强壯安定の感を呈して居る。初重の內部には極彩色を以て佛菩薩、僧侶、唐草等が一面に描かれて居る。この繪を普通壁畫と云つて居るが、板に胡粉を塗つてその上に繪を描いたものであるから板繪と稱すべきものである。中心柱及四方の羽目に描いたものは、金剛界及胎藏界兩部の曼荼羅及眞言八祖大師の像である。

四天柱は今は素木となつて居るが、これは中古木材を取替へたもので、もとは他部同樣彩畫のあつたことは勿論である。唯惜むらくは現存の彩繪剥落甚しく、八祖の如きは殆ど見る影も無くなつて居る。然し中心柱の一部に殘存して居る胎藏界大日の一區の如きは、尙よく常初の面影を留めて居る。その畫法に於ては一部分に暈法を用ゐ、他はすべて繧繝法を以てし、地には切金文樣を施して居る。今これ等の模樣をよく調べて見ると、前代に於ける藥師寺東塔或は唐招提寺金堂內等の裝飾文樣の後を承け、次に來るべき鳳凰堂裝飾の先驅を僞すもので、藤原期の趣致を定めんとして居る。

上醍醐は山下五重塔婆の後方から山を登ること四粁餘にして達する。山上には藥師堂、經藏、淸瀧堂、拜殿及五大堂がある。

藥師堂[國寶] 山上伽藍の中心をなす建物で保安二年の建立、五閒四面、單層入母屋造、檜皮葺で小さい乍らよく纏まつて居る。內部は床漆喰塗で、その中三閒二面を內陣とし組子にて仕切り、奧に佛壇を設けて居る。內陣の桝組閒には本蟇股と稱して中空の蟇股を用ゐて居る。これは中尊寺金色堂や宇治上神社本殿のと共に當代に初めて現はれ、蟇股變遷史上重要な位置を占めるものである。佛壇に安置された本尊藥師如來の坐像は、木造で藤原初期のものと見られ、會理僧都の作と傳へ、廣隆寺講堂の阿彌陀像と共に當代の傑作と稱され國寶に指定されて居る。尙佛壇上には左記の諸像があり、何れも國寶で藤原時代の優秀な作である。

  • 日光月光菩薩立像 木造 二軀
  • 帝釋天像 寺傳普賢菩薩像 木造 一軀
  • 閻魔天像 木造 一軀
  • 吉祥天立像 木造 一軀

經藏[國寶] 藥師堂の南方にある。桁行三閒、梁閒二閒、單層、屋根は四注造、杮葺、建久六年卽ち鐮倉の初期に建てられた純粹な天竺樣の建築である。內陣中央には經室がある。柱上部の長い粽、插肘木、木鼻、扇棰を始め內部の唐戶など、よく天空樣の特色を示して居る。

淸瀧堂拜殿[國寶] 下から登つて行くと第一に出會ふ建物である。三閒七面、單層入母屋造妻人、檜皮葺で木割比較的細く、側柱は面取方柱で舟肘木を用ゐ、柱閒は蔀戶或は引違格子を用ゐ、四方に椽を廻らして居る。內部は何の裝飾もなく、圓い內陣柱が一列に竝び、天井は竿椽天井ですつきりとして氣持がよい。元來は神社の拜殿でありながら佛寺的住宅建築であるのが特に珍らしい。

五大堂[國寶] 藥師堂から更に登つた山頂にある。慶長十一年の建築で、五閒四面、入母屋造杮葺、內部は床瓦敷、天井高く堂々と雄大なところがあり、多く唐樣を加味し、技巧は拙いが、構架や組物に自由な新手法を用ゐて居る。

  • 寶物
  • 五祕密像[國寶] 一幅 絹本著色 鐮倉時代 三寶院藏
  • 愛染明王像[國寶] 一幅 絹本著色 鐮倉時代 三寶院藏
  • 扇面二曲屏風[國寶] 一雙 紙本著色 俵屋宗達筆 醍醐寺藏 宗話は慶長より寬永にかけて盛にその技を揮ひ、大和繪に基き好んで沒骨法を使用して新基軸を出した江戶初期に於ける大家である。この屏風は歷史的人物風景動物等を描いたものを貼り附けたもので、落款はないが一見宗達の筆たることの明かなもので、構圖の妙、設色の豐麗潤澤、自由な筆致を揮つて、得意の裝飾的趣致を遺憾なく發揮して居る。帝室御物の扇面散屏風と共に彼の傑作として名高い。
  • 舞樂圖[國寶] 二曲屏風 一雙 金地著色 俵屋宗達筆
  • 訶梨帝母像[國寶] 一幅 絹本著色 藤原時代末
  • 密敎圖像[國寶] 三十九點 紙本墨書 藤原時代乃至鐮倉時代 醍醐寺藏
  • 調馬圖[國寶] 六曲屏風 一雙 紙本著色 傳山樂筆 醍醐寺藏 京都博物館出陳
  • 虛空藏菩薩像[國寶] 一幅 絹本著色 三寶院藏 東京帝室博物館出陳
  • 醍醐花見短籍[國寶] 一帖 紙本墨書 豐臣秀吉以下一座各筆百三十一葉 三寶院藏 京都博物馆出陳

醍醐・山科のみどころ