坂上田村麻呂の墓

坂上田村麻呂墓
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

山科駅の南2.5km、山科栗栖華の木町にあり、自動車の便があります。高さ約1.5mの封士で長く荒廃していたものを明治28年(1895年)平安奠都1,100年祭の折に大きく修理を加えました。田村麻呂は有名な武人で、桓武天皇の朝勅を奉じてしばしば蝦夷征討に従って功績あり、延暦16年(797年)征夷大将軍に任命され陸中胆沢の蝦夷を討滅してここに築き、天皇の威光を陸奥の地に輝かせ、蝦夷はすべて朝廷の配下となりました。弘仁2年(811年)54歳をもって粟田別荘で没しました。嵯峨天皇から栗栖野の地三町を賜って墓域とし、屍を棺中に立て、甲冑や弓を備えて、平安城に向かって埋め、永く王城の鎮護とされたといいます。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行

令和に見に行くなら

名称
坂上田村麻呂の墓
かな
さかのうえのたむらまろのはか
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市山科区勧修寺東栗栖野町
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

山科驛の南二粁半、山科栗栖華の木町にあり、自動車の便がある。高さ約一米半の封士で久しく荒廢したのを明治二十八年平安奠都一千百年祭の折大いに修理を加へた。田村麻呂は有名な武人で、桓武天皇の朝敕を奉じて屢蝦夷征討に從つて功あり、延曆十六年征夷大將軍に拜して陸中膽澤の蝦夷を討滅してこゝに築き、皇威を陸奧の地に輝かしめ、蝦夷全く王化に伏するに至つた。弘仁二年壽五十四を以て粟田別業に薨じた。嵯峨天皇卽ち栗栖野の地三町を賜ひて墓域となし、屍を棺中に立て、甲を環し弓を帶せしめ、平安城に向ひて埋めしめ、永く王城の鎭護たらしめ給うたと云ふ。

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