湊川神社
湊川神社[別格官幣社]
昭和初期のガイド文
市電楠公前下車、多聞通三丁目にあります。明治5年(1872年)特に勅旨をもって、楠木正成を祭神として創立されたものです。この地はもと坂本村地内で、尼ヶ崎領主青山幸利が古塚を調べ塔を建て、後の江戸時代中期の元禄5年(1692年)に徳川光圀が現在の墓碑を再建しました。碑は神社の鳥居を入りすぐに右折したところ、境内の東南隅にあり、碑の表には嗚呼忠臣楠子之墓とあり、裏には朱舜水の讃辞を刻してあります。正成は室町時代の延元元年(1336年)5月25日海陸から攻め上ってくる足利尊氏の大軍を防戦して敗れ自刃しました。
例祭は7月12日。なお5月25日の神幸祭は十六騎馬武者の行列などがあり、大いに賑わいます。
- 宝物
- 段威腹巻[国宝] 一領 正成着用のものと伝わります。
- 法華経奥書[国宝] 一幅 紙本墨書、法華経の奥書で、経文は失われています。正成の自筆で、はじめ正成が義兵を挙げる時、心願叶い天下が静まれば、社前に毎日法華経一品を転読するとして祈願し、その後復古の大業を成就したので法華経一部を書写して宿願を果すという内容が書いてあります。
※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 湊川神社
- かな
- みなとがわじんじゃ
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 兵庫県神戸市中央区多聞通3-1-1
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
市電楠公前下車、多聞通三丁目にある。明治五年特に敕旨を以て、楠木正成を祭神として創立されたものである。この地はもと坂本村地內で、尼ケ崎領主靑山幸利が古塚を調べ塔を建て、後元祿五年に德川光圀が現在の墓碑を再建した。碑は神社の鳥居を入り直に右折した所境內の東南隅にあり、碑の表には嗚呼忠臣楠子之墓とあり、裏には朱舜水の讃辭を刻してある。正成は延元元年五月廿五日海陸より攻め上れる足利尊氏の大軍を防戰して敗れ自刃したのである。
例祭は七月十二日。尙五月二十五日の神幸祭は十六騎馬武者の行列等あり、大に賑ふ。
- 寶物
- 段威腹卷[國寶] 一領 正成着用のものと傳へる。
- 法華經奧書[國寶] 一幅 紙本墨書、法華經の奧書で、經文は失はれて居る。正成の自筆で、はじめ正成が義兵を擧げる時、心願協ひ天下靜まれば、社前に每日法華經一品を轉讀せんと祈願したが、今や復古の大業成就したので、こゝに法華經一部を書寫して宿願を果す旨が書いてある。