神戸市

神戶市
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

東海道本線、山陽本線の接続地、灘三ノ宮、神戸、兵庫、鷹取、須磨などの駅の所在地です。

大阪湾の北岸に位置し、面積約81km²、西南から東北に六甲山の連脈を背負い、海岸に接しているところに平地があります。この連脈は花崗岩、第三紀層、石英斑岩等からなって、市域の大部を占め、鷹取山(328m)、鍋蓋山(485m)、再度山(468m)、摩耶山(698m)、六甲山等を連ねています。河川は妙法寺川、新湊川、新生田川等がありますが、地勢の関係上いずれも短く、河口に沖積地を突き出しているため、海岸は数箇の湾形を描いています。

上古以来交通の要地である務古水門(武庫港)は三韓が服属してから、その貢船が多く来泊しました。この港は輪田泊、大輪田泊とも呼ばれ、今の兵庫港で、神戸港の一部です。平清盛が兵庫の福原を占って遷都を決行し、平安時代の治承4年(1180年)6月から11月まで、帝都の地でした。安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)豊臣秀吉の大阪築城をきっかけとして、兵庫は堺とともに繁栄に向かい、江戸時代後期の天明7年(1787年)での戸数は4,464戸、人口は1万9,588人を数え、米穀、肥料、海産物の集散地として、関西地方で重要な地位を占めていました。兵庫の東界となる湊川以東の神戸は明治維新前まで中国街道に沿って走水、二ツ茶屋、神戸の3村落があり戸数1,000戸未満で、その多くは茅葺の平屋、客をもてなす酒肴を調達するため、兵庫に走る必要があり中国街道を往来する人は、牛小屋から出る牛の角に驚くような場所でした。しかし慶応3年(1867年)12月7日兵庫港が開放され、港湾が最も深く、土地も広い神戸村東部の海岸地に居留地を設けられてから、俄然その面目を一変しました。明治元年(1868年)11月1日神戸町ができて港を神戸港と公称し、同12年(1879年)1月兵庫および坂本村を合併して神戸区となり、同22年(1889年)さらに葺合、荒田両村を併せて神戸市と改称、その後同29年(1896年)4月には湊、林田の2村と須磨村の一部を、大正9年(1920年)4月には須磨町を、昭和4年(1929年)4月には西灘村、西郷町と六甲村の大部を編入して市域を拡大しました。

市街は海岸の低地に発達して山腹におよび、西南から東北に帯状をなし、約80万の人口があって日本6大都市のひとつに数えられ、灘、葺合、神戸、湊東、湊、湊西、林田、須磨の8区に分かれています。産業は貿易とこれに関係ある工業が盛んに行われ、交通は海陸ともに便利です。

工業は機械工業が最も盛んで、飲食物、化学、染織の諸業が順次これに次ぎ、船艦、機械、麦粉、精糖、ゴム等を産出します。工産総額は昭和4年において3億4,000万円に上り、不景気にもかかわらず前年からも約7,000万円を増しました。

神戸は従来横浜に比して、輸出においては劣り、輸入においては優り、輸出入合計も日本の港の第2位でしたが、現在は三者とも横浜の上に立ち、日本一の開港場となりましたが、依然として輸入は輸出よりも多くなっています。

輸出品は生糸を始めとし、綿織物、絹織物、精糖等、輸入品は繰綿に次いで羊毛、毛糸、生ゴム、油粕、硫安等が主なものです。輸出先はアメリカ、中国、インド等、輸入元はアメリカ、インド、ドイツ、イギリス等が上位を占めます。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
神戸市
かな
こうべし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
兵庫県神戸市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

東海道本線、山陽本線の接續地、灘三ノ宮、神戶、兵庫、鷹取、須磨等諸驛の所在地。

大阪灣の北岸に位し、面積約八一方粁、西南から東北に六甲山の連脈を負ひ、海岸に接して居る處に平地がある。この連脈は花崗岩、第三紀層、石英斑岩等から成つて、市域の大部を占め、鷹取山(三二八米)、鍋蓋山(四八五米)、再度山(四六八米)、摩耶山(六九八米)、六甲山等を戴いて居る。河川は妙法寺川、新湊川、新生田川等あるが、地勢の關係上何れも短小で、河口に沖積地を突出せしめて居るため、海岸は數箇の彎形を描いて居る。

上古以來交通の要地である務古水門(武庫港)は三韓が服屬してから、その貢船が多く來泊した。この港は輪田泊、大輪田泊とも呼ばれ、今の兵庫港で、神戶港の一部である。平淸盛兵庫の福原を卜して遷都を決行し、治承四年六月から十一月まで、帝都の地であつた天正年閒豐臣秀吉の大阪築城を機として、兵庫は堺と共に繁榮に赴き、天明七年に於ける戶數は四、四六四戶、人口は一九、五八八人を算し、米穀、肥料、海產物の集散地として、關西地方で重要な地位を占めて居た兵庫の東界をなす湊川以東の神戶は明治維新前まで中國街道に沿うて走水、二ツ茶屋、神戶の三村落があり戶數一千戶に達せず、その多くは茅葺の平屋で、珍客を饗應する酒肴を調べるため、兵庫に走る必要があり中國街道を往來する旅客は、牛小屋から出る牛の角に驚くことがあつた。しかし慶應三年十二月七日兵庫港が開放され、港灣最も深く、土地も平濶である神戶村東部の海岸地に居留地を設けられてから、俄然その面目を一變した。明治元年十一月一日神戶町が出來て港を神戶港と公稱し、同十二年一月兵庫及坂本村を合して神戶區となり、同二十二年更に葺合、荒田兩村を倂せて神戶市と改稱、その後同二十九年四月には湊、林田の二村と須磨村の一部を、大正九年四月には須磨町を、昭和四年四月には西灘村、西鄕町と六甲村の大部を編入して市域を擴めた。

市街は海岸の低地に發達して山腹に及び、西南から東北に帶狀をなし、約八十萬の人口があつて我が六大都市の一つに數へられ、灘、葺合、神戶、湊東、湊、湊西、林田、須磨の八區に分れて居る。產業は貿易とこれに關係ある工業が甚盛に行はれ、交通は海陸共に便利である。

工業は機械工業が最も盛で、飮食物、化學、染織の諸業順次これに次ぎ、船艦、機械、麥粉、精糖、護謨等を產出する。工產總額は昭和四年に於て三億四千萬圓に上り、不景氣にも拘らず前年よりも約七千萬圓を增した。

神戶は從來橫濱に比して、輸出に於ては劣り、輸入に於ては優り、輸出入合計も本邦諸港の第二であつたが、今は三者とも橫濱の上に立ち、我が國第一の開港場となつたが、依然として輸入は輸出よりも多い。

輸出品は生絲を始めとし、綿織物、絹織物、精糖等輸入品は繰綿に次いで羊毛、毛絲、生護謨、油粕、硫安等が主なものである。輸出先は米國、支那、英領印度等、輸入元は米國、英領印度、獨、英等が上位を占める。

神戸のみどころ