崇禅寺

崇禪寺[曹洞宗]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

新京阪電車崇禅寺の西北300m、山口町にあります。室町時代の嘉吉2年(1442年)赤松満祐が将軍義教を殺し、首を携えて西走の途中、ここに埋葬し去りました。管領の細川持賢がこの寺を建てて弔いました。境内に義教の墓があります。その門前の松原を崇禅寺馬場と呼び、江戸時代中期の正徳5年(1715年)遠城重次、安藤光乗兄弟が郡山藩本多氏の臣生田伝八郎から返討ちにあったところで、寺に遺物があります。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
崇禅寺
かな
そうぜんじ
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
昭和20年(1945年)の大阪大空襲で焼失、戦後に再建されています。
住所
大阪府大阪市東淀川区東中島5-27-44
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

新京阪電車崇禪寺の西北三〇〇米、山口町にある。嘉吉二年赤松滿祐將軍義敎を弑し、首を携へて西走の途次こゝに埋葬し去る。管領細川持賢この寺を建てゝ弔うた。境內に義敎墓がある。その門前の松原を崇禪寺馬場と稱し、正德五年遠城重次、安藤光乘兄弟が郡山藩本多氏の臣生田傳八郞のため返討に遭つた處で、寺に遺物がある。

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