東本願寺別院(難波別院)

東本願寺別院(難波別院)[眞宗大谷派]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電阿波座中通下車、北久太郎町四丁目にあります。安土桃山時代の文禄3年(1594年)本願寺第十二世教如上人が弟准如(光昭)に職を譲って別に摂津西成郡渡辺の地に一寺を創設し大谷本願寺と称しました。その後寺をこの地に移し人々は難波御堂と呼びましたが、慶長7年(1602年)教如上人が、徳川家康の命を受けて本山を京都烏丸の地に移すにあたってこの地は掛所となりました。江戸時代中期の宝永2年(1705年)本堂を改築し、寺域を拡げ諸堂も相次いで建てられ、ついに現在の規模となりました。俗に南の御堂と呼ばれ、明治天皇が御臨幸になったこともあります。門前の南久太郎町四丁目花屋小路は、芭蕉が元禄7年(1694年)この地を訪れた際に病んで没した旧蹟です。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
東本願寺別院(難波別院)
かな
ひがしほんがんじべついん(なんばべついん)
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
昭和20年(1945年)の大阪大空襲で焼失、戦後に再建されています。
住所
大阪府大阪市中央区久太郎町4-1-11
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電阿波座中通下車、北久太郞町四丁目にある。文祿三年本願寺第十二世敎如上人弟准如(光昭)に職を讓りて別に攝津西成郡渡邊の地に一寺を創設し大谷本願寺と稱した。その後寺をこの地に移し人々難波御堂と呼んだが、慶長七年敎如上人、德川家康の命を承けて本山を京都烏丸の地に營むに及んでこの地は掛所となつた。寶永二年本堂を改築し、寺域を擴げ諸堂相ついで造營せられ、遂に現時の規模をなした。俗に南の御堂と稱せられ、明治天皇の御臨幸を辱うしたこともある。門前の南久太郞町四丁目花屋小路は、芭蕉が元祿七年この地に遊び病んで歿した舊蹟である。

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