大阪城

大阪城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市の東北に位置し、内、中廊の二重のお堀が残っています。その外廊はさらに北に淀川が流れ、西に横堀川があり、南は道頓堀以東玉造の北におよんで空堀が存在しました。内廓の中央に本丸跡があり、昭和6年(1931年)竣工の鉄筋コンクリート造の新天守閣がそびえ、その北は山里丸跡です。本丸跡の南に桜門があります。中廊は二の丸跡で広い堀を巡らせ、西南に大手門があり、西北に京橋口、東北に青屋口、東南に玉造口の諸門があり、外廓は三の丸跡で、石塁などが残っています。

城はもと石山本願寺の跡で、室町時代の天文元年(1532年)本願寺の証如がここに城廓を築き、山科から移って本山を置きました。安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)織田信長がこれを攻めましたが、数年かけても終わらず、ついに朝廷の論旨をもって顕如が紀州鷺森に退居した後、織田氏が番衆を置いて守らせました。同11年(1583年)豊臣秀吉が関西諸国の大小名に命じて新たに築城させ、同13年(1585年)竣工しました。慶長4年(1599年)豊臣秀頼が伏見城から移り、大きく増築しましたが、同19年(1614年)11月徳川家康と不和を生じて戦い、一旦和議が成立しましたがその際に外廊を壊し周堀を埋めました。翌元和元年(1615年)4月に和議が解かれ再び東軍が取り囲み、5月に城はついに落ち豊臣氏は滅亡しました。家康はこれを松平忠明に与え、忠明がこれを修理し復旧させました。同5年(1619年)秀忠は忠明の領地を移し、内藤信正を城代とし以来この城をもって鎮府としました。翌6年(1620年)秀忠は西国の諸侯に命じて修築させ、さらに家光が江戸時代前期の寛永年間(1624~1644年)に土工を起し、数年を経て完成しましたが、万治3年(1660年)火薬庫に落雷して城内を焼き、寛文5年(1665年)になって天守閣も雷火で焼失しました。

江戸時代後期の天保年間(1830~1844年)家慶が市民に命じて修造を加え、安政5年(1859年)殿舎その他の修造と大手門の再建が終わりました。慶応元年(1865年)家茂の長州征伐の際、この城に滞在し翌年8月城中で没しました。明治元年(1868年)正月城中の火災で大部分を焼失し、同5年(1872年)大阪鎮台をこの城に置き、次いで第四師団兵営がここに置かれました。現在本丸跡に師団司令部があります。二の丸跡に兵器支廠と衛戌刑務所が置かれ、三の丸跡には東北部に大阪工廠が置かれています。鉄筋コンクリート造の天守閣は主として黒田家所蔵の大阪陣絵屏風に基づいて再建したものです。慶長元年(1596年)秀吉が朝鮮使節接待のために建てた館の跡とされる千畳敷跡には現在、明治18年(1885年)和歌山城から移し建てた殿舎があって紀州御殿と呼ばれます。秀頼、淀君らが自殺した山里丸跡は低い曲輪で現在庭園となっています。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
大阪城
かな
おおさかじょう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府大阪市中央区大阪城1-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市の東北に位し、內、中廊の二重の濠壘が遺存して居る。その外廊は更に北に淀川流れ、西に橫堀川あり、南は道頓堀以東玉造の北に及んで空濠が存在した。內廓の中央に本丸址あり、昭和六年竣工の鐵筋コンクリート造の新天守閣聳え、その北は山里丸址である。本丸址の南に櫻門あり。中廊は二の丸址で廣き濠繞り、西南に大手門あり、西北に京橋口、東北に靑屋口、東南に玉造口の諸門があり、外廓は三の丸址で、石壘等が遺存して居る。

城はもと石山本願寺の址で、天文元年本願寺の證如こゝに城廓を築き、山科から移りて本山を置いたが、天正年閒織田信長これを攻め、數年にして拔けず、終に朝廷の論旨を奉じて顯如が紀州鷺森に退居するに及び、織田氏番衆を置いて守らしめたが、同十一年豐臣秀吉關西諸國の大小名に命じて新に築城せしめ、同十三年工を竣つた、慶長四年豐臣秀賴伏見城より移り、大いに增築をなしたが、同十九年十一月德川家康と不和を生じて戰ひ、一旦和議成つたがその際外廊を毀ち周濠を埋めた。翌元和元年四月和議破れて再び東軍の圍むところとなり、五月城遂に陷り豐臣氏は滅亡した。家康これを松平忠明に與へ、忠明これを修治し稍舊に復した。同五年秀忠は忠明を徒封し、內藤信正を城代となし爾來この城を以て鎭府となした。翌六年秀忠西國の諸侯に課して修築せしめ、更に家光寬永年閒に土工を起し、數年を經て完成したが、萬治三年火藥庫に落雷して城內を燒き、寬文五年に至つて天守閣も雷火に燒失した。

天保年閒家慶市民に課して修造を加へしめ、安政五年殿舍その他の修造竝に大手門の再建が成つた。慶應元年家茂長州征伐の際、この城に滯り翌年八月城中に薨じた。明治元年正月城中火を失して大部分燒失し、同五年大阪鎭臺をこの城に置き、次いで第四師團兵營がこゝに置かれた。今本丸址に師團司令部あり。二の丸址に兵器支廠及衞戌刑務所置かれ、三の丸址には東北部に大阪工廠が置かれて居る。鐵筋コンクリート造の天守閣は主として黑田家所藏大阪陣繪屏風に基づいて再建したものである。慶長元年秀吉が朝鮮使節接待のために建てた館の址と稱する千疊敷址には今、明治十八年和歌山城から移し建てた殿舍があつて紀州御殿と稱する。秀賴、淀君等の自殺した山里丸址は低い曲輪で今庭園となつて居る。

大阪城・淀屋橋のみどころ