大阪城公園

大阪城公園
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電大手前下車、馬場町にあります。

この公園は昭和御大礼記念のために、市民の特志寄附金150万円を財源とし、大阪市の事業として造営したもので、昭和4年(1929年)8月起工、同6年(1931年)11月竣工公開しました。面積8万7,000m²、旧大阪城の内堀内から大手門付近、さらに大手前広場を包括する大公園です。

この公園で目を引くのは、大阪城天守台跡に耐震耐火の近代建築工法に則り、五重層白亜の大天守閣が堂々とそびえ、その頂上に金光燦爛と鯱鉾が輝いていることです。

大手前広場から威容堂々とした天守閣の雄姿を仰ぎながら、東へ大手口に進むと外堀を渡って大手門を入ります。門を入ると二の丸で正面が多聞矢倉です。左折して桝形を通れば左に千貫櫓を見、道は右折して芝生の植込を斜めに通っています。左右には陸軍の兵器支廠や兵器庫があり、道の突き当りが南仕切小枡形門の跡です。太鼓楼跡を右に見て左折し、空堀に沿って東進しさらに左折すれば、天守閣を真正面に望みつつ桜門口に至ります。桜門は焼失して南側冠木門だけが名残りを留めています。門の左右には東に竜石、西に虎石と呼ばれる巨石が石垣に用いられていて、両石とも高さ4.5m、横6.5mあまりあり、三十二畳敷といわれています。その名の由来は霖雨のため湿気が多くなると石面に竜と虎の形が現れることによります。桜門を入るともう本丸で小桝形の正面東に蛸石(高さ8m、横11mあまり、四十五畳敷といいます)、西に振袖石(高さ4.5m、横13.3mあまり、三十三畳敷といいます)の巨石が横たわり、巨石が大阪城名物であることがわかります。左側銀水井筒に清水が湧いているのを見て右折すれば、第四師団司令部の建物が目立ちます。

この建物は市が公園施設の一部として、本丸東南の1万2,000m²に、欧州中世の城郭建築を模範とした鉄筋コンクリート造で黄褐色の外装をした四層建を80万円を投じて造り、陸軍へ寄附したものです。これと相対し、東面して建つ純日本風の建物は紀州御殿です。もと和歌山城内にあったものを明治18年(1885年)ここに移建したもので、その庭先約8,000m²は築山や林泉がある日本式庭園となっています。これら建物の間の園路を直進すれば、石段数十段を上って小天守閣跡に出て、ここにある黄金水の井戸の脇を通って天守閣に入ります。

天守閣は高さ14m、東西30m、南北36mの石畳上にそびえる42mの高楼で、外観五層内部八層の鉄骨鉄筋コンクリート造です。桃山時代の建築様式を取り入れ、外観の下四層および第五層の破風は白亜ですが第五層は漆黒としていて、外部壁間はコンクリート地、漆黒蒔絵の舞鶴八姿を、その廻縁下には伏虎の銅板打出し彫刻金箔張りを嵌入し、屋上の金鯱とともに燦然として輝き、人目を引いています。屋根は黒銅板瓦葺で軒先、巴、瓦、唐草瓦および破風その他の飾りもみな金箔張りです。屋上の金鯱は、銅95%錫5%の合金で鋳造し外装に純金箔を張った高さ2mにおよぶものです。

内部は5階までエレベーターが通じていて、8階に昇り廻縁に立てば、舞鶴の漆箱の外側に出ます。ここからは眼下に全大阪市街を見、東は生駒に対峙し、西は白帆走る大阪湾、白砂青松の色鮮かな須磨明石の浦まで望め、南は楠公の義忠に名高い金剛、葛城の峰が眼前に見え、北は淀、八幡、大山崎から大淀の流れが横たわるのが望めます。なお内部の3階4階は郷土博物館として使用されることになっています。

天守閣の西、紀州御殿の庭先西手の石垣上は具足方頂り片菱矢倉跡で、現在は趣ある東屋があります。天守閣の北へ石垣に沿って下ると姫門跡の小桝形があり旧焔硝蔵跡の帯曲輪は現在児童遊戯場として各種運動具を備えています。東にさらに石段を下ると1万m²あまりの低平地があります。このあたりが山里丸または蘆田曲輪と呼ばれる本丸の搦手で、元和落城の際に豊臣一族没落の哀史を止めた奥御殿のあった場所です。現在は噴水池を堀り、放射状園路を配し、水鳥舎、藤棚などを設けて、和洋折衷の庭園となっています。ここから東南隅の石段を登って隧道を抜けると、貯水池の東北隅にある糒櫓跡に出て、東側を廻って天守閣前に出る巡路が通じています。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行
大阪城 大阪城公園

令和に見に行くなら

名称
大阪城公園
かな
おおさかじょうこうえん
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府大阪市中央区大阪城1-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電大手前下車、馬場町にある。

この公園は昭和御大禮記念の爲に、市民の特志寄附金百五十萬圓を財源とし、大阪市の事業として造營したもので、昭和四年八月起工、同六年十一月竣功公開した。面積八七〇アール、舊大阪城の內濠內全部及大手門附近竝に大手前廣場を包括する大公園である。

この公園の一大異彩は、大阪城天守臺跡に耐震耐火の近代建築工法に範り、五重層白亞の大天守閣が堂々と聳立し、その頂上に金光燦爛たる鯱鉾の輝けることである。

大手前廣場から威容堂々たる天守閣の雄姿を仰ぎながら、東へ大手口に進むと外濠を渡つて大手門を入る門を入ると二の丸で正面が多聞矢倉である。左折して桝形を通れば左に千貫櫓を見、道は右折して芝生の植込を斜に通て居る。左右には陸軍の兵器支廠及兵器庫があり、道の突當りが南仕切小枡形門の址である。太鼓樓址を右に見て左折し、空濠に沿うて東進し更に左折すれば、天守閣を眞正面に望みつゝ櫻門口に至る。櫻門は燒失して南側冠木門だけが名殘を留めて居る。門の左右には東に龍石西に虎石と稱する巨石が石垣に用ゐられ、兩石共高さ四米半、橫六米半餘あり、三十二疊敷と云はれる。その名の由來は霖雨の爲濕氣多くなると石面に龍及虎の各形象が現出するのに依る。櫻門を入ると卽ち本丸で小桝形の正面東に蛸石(高さ八米、橫一一米餘、四十五疊敷と云ふ)西に振袖石(高さ四米半、橫一三米三餘、三十三疊敷と云ふ)の巨石が橫はり、巨石の大阪城名物であるのが知られる。左側銀水井筒の淸水の湧くのを見て右折すれば、第四師團司令部の建物が目立つ。

この建物は市が公園施設の一部として、本丸東南の一廓一二〇アールに、歐洲中古の城郭建築に範をとり八十萬圓を投じて鐵筋混凝土造で黃褐色の外裝をした四層建を造り、陸軍へ寄附したものである。これと相對し、東面して建つ純日本風の建物は紀州御殿である。もと和歌山城內にあつたのを明治十八年こゝに移建したもので、その庭先約八〇アールは築山あり林泉ある日本式庭園となつて居る。これ等建物の閒の園路を直進すれば、石段數十を上つて小天守閣址に出で、こゝにある黃金水の井戶の脇を通つて天守閣に入る。

天守閣は高一四米、東西三〇米、南北三六米の石疊上に聳ゆる四二米の高樓で、外觀五層內部八層の鐵骨鐵筋コンクリート造である。桃山時代の建築樣式を取り入れ、外觀の下四層及第五層の破風は白亞であるが第五層は漆黑とし、外部壁閒はコンクリート地、漆黑蒔繪の舞鶴八姿を、その廻緣下には伏虎の銅板打出し彫刻金箔張りを嵌入し、屋上の金鯱と共に燦然として輝き、人目を瞠らしめて居る。屋根は黑銅板瓦葺で軒先、巴、瓦、唐草瓦及破風その他の錺悉く金箔張りである。屋上の金鯱は、銅九五%錫五%の合金で鑄造し外裝に純金箔を張つた高さ二米に及ぶものである。

內部は第五階までエレベーターを通じ、第八階に昇り廻緣に立てば、舞鶴の漆箱の外側に出る。こゝからは脚下に全大阪市街を一目に見、東方生駒に對峙し、西は白帆走る大阪灣の西涯、白砂靑松の色鮮かなる須磨明石の浦まで指願され、南は楠公の義忠にその名高き金剛、葛城の峻峯眼近く、北は淀、八幡、大山崎から大淀の流れの橫はれるのが望まれる。尙內部の第三階第四階は鄕土博物館として使用さるゝ筈と云ふ。

天守閣の西方紀州御殿の庭先西手石垣上は具足方頂り片菱矢倉址で、今雅趣ある四阿を建てゝある。天守閣の北方へ石垣に沿うて下ると姬門址の小桝形があり舊焔硝藏址の帶曲輪は今兒童遊戲場として各種運動具を設備して居る。東して更に石階を下ると一〇〇アール餘の低平地がある。この一廓が山里丸または蘆田曲輪と稱し本丸の搦手であり、元和落城の際豐臣一族沒落の哀史を止めた奧御殿の在つた場所である。今噴水池を堀り、放射狀園路を配し、水禽舍、藤棚等を設けて、和洋折衷の庭園となつて居る。こゝから東南隅の石段を登り隧道を拔けると、貯水池の東北隅卽ち糒櫓址に出で、東側を廻つて天守閣前に出る巡路が通じて居る。

大阪城・淀屋橋のみどころ