契沖旧庵(円珠庵)

契沖舊庵(圓珠庵)[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電上本町三下目下車餌差町にあります。契沖は晩年この庵に隠棲し、読書、著作などに親しみました。庵は没後修理を経ましたがよく旧態を残しています。庵の裏庭に墓があり、契沖阿闍梨墓と題し、碑文は五井純禎(蘭洲)の撰となるもので、庵とともに指定の史蹟となっています。墓の付近に水戸藩儒者安藤為章の撰になる碑があり、藤村叡運の碑と並んでいます。契沖は尼崎の人で寛文17年に生まれ、幼い頃から高野山東室院に学び寛文中に摂津の生玉曼荼羅院の住持となり、その後あちこちに転住しました。その間泉州万町(泉北郡南池田村)の伏屋長左衛門重賢に招かれ、その屋敷内の養寿庵と名付ける小庵に住みましたが、重賢は江戸時代前期の元和元年(1615年)それをここに移し建て、契沖はこれを円珠庵と呼びました。契冲は国史、歌書を深く研鑽し、万葉代匠記二十巻、総釈二巻を著して徳川光圀の知遇を得たことは世に知られていますが、晩年ここで書いたものに和字正濫抄、厚顔抄、勢語臆断等があります。江戸時代中期の元禄14年(1701年)正月62歳をもってこの庵で没し、明治年間(1868年~1912年)正四位を贈られました。契沖と同時代の国学者下河辺長流の墓もまた境内にあり、大正14年(1925年)新たに建設されたものです。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
契沖旧庵(円珠庵)
かな
けいちゅうきゅうあん(えんじゅあん)
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
鎌八幡の呼び名で知られます。昭和20年(1945年)の大阪大空襲で消失、戦後に再建されています。
住所
大阪府大阪市天王寺区空清町4-2
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電上本町三下目下車餌差町にある。契沖は晚年この庵に隱棲し、讀書、著作等に親んだ。庵は歿後修理を經たがよく舊態を存して居る。庵の裏庭に墓あり、契沖阿闍梨墓と題し、碑文は五井純禎(蘭洲)の撰にかゝり、庵と共に指定の史蹟である。墓の附近に水戶藩儒者安藤爲章の撰になる碑あり、藤村叡運の碑と竝んで居る。契沖は尼崎の人、寬文十七年に生れ、幼にして高野山東室院に學び寬文中攝津生玉曼荼羅院に住持となり、諸處に轉住した。その閒泉州萬町(泉北郡南池田村)の伏屋長左衞門重賢に講ぜられ、その屋敷內の養壽庵と名付ける小庵に住んだが、重賢は元和元年それをこゝに移し建て、契沖これを圓珠庵と號した。契冲は國史、歌書を深く硏鑽し、萬葉代匠記二十卷、總釋二卷を著はして德川光圀に上つたことは世に知られて居るが、晚年こゝにありて著はしたものに和字正濫抄、厚顏抄、勢語臆斷等がある。元祿十四年正月歲六十二を以てこの庵に於て歿し、明治年閒正四位を贈られた。契沖と時を同じうした國學者下河邊長流墓また境內にあり、大正十四年新に建設されたものである。

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