基肄城跡

基肄城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

基山駅の西北約3km、佐賀県三養基郡基山村を中心として福岡県筑紫郡山口、筑紫両村にわたって築造され、土塁、石塁、城門跡その他水門、建造物の礎石等を遺存しています。天智天皇4年(665年)百済人に大野城と同時に築かせた椽城(記夷城)の遺跡です。大規模な山城跡で、木戸口もしくは宮浦口から登れば南方の入口にある住吉神社境内に水門があり、東西両側からめぐって来る土塁線はここの石垣と連絡し、渓流を通ずる水門と百済式石垣とは、築造当時の面影をそのまま見ることができます。渓流に沿って進み、さらに左道を登れば「芋のがんぎ」と称する一種の土塁跡があり、蒲鉾形の三箇の大突堤と四条の溝とが南北に並んでいるものを見て南方の最高所に達します。また右道を登れば萩原越の東北門跡や太宰府口の北御門の遺跡を経て北帝の頂上に上り、尾根伝いに南方の最高所に到ることができます。城跡内で建造物の遺跡と見るべき礎石で「芋のがんぎ」の東北にあるものは最も大規模で、44個の礎石が遺存し、付近から出土した八葉蓮弁の丸瓦は築城常時の遺物で、佐賀市徴古館に出陳されています。山頂南方の高所に立てば筑紫平野ならびに筑紫山脈の峰を一望でき、太宰府付近一帯の地形を大観することができます。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
基肄城跡
かな
きいじょうあと
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
福岡県筑紫野市、佐賀県三養基郡基山町
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

基山驛の西北約三粁、佐賀縣三養基郡基山村を中心として福岡縣筑紫郡山口、筑紫兩村に亙りて築造せられ、土壘、石壘、城門址その他水門、建造物の礎石等を遺存して居る。天智天皇四年百濟人をして大野城と同時に築かしめた椽城(記夷城)の遺址である。大規模の山城址で、木戶口若くは宮浦口から登れば南方の入口にある住吉神社境內に水門が存し、東西兩側から繞つて來る土壘線はこゝの石垣と連絡し、溪流を通ずる水門と百濟式石垣とは、築造當時の面影をその儘見る事が出來る。溪流に沿うて進み、更に左道を登れば「芋のがんぎ」と稱する一種の土壘址があり、蒲鉾形の三箇の大凸堤と四條の溝とが南北に竝んで居るものを見て南方の最高所に達する。また右道を登れば萩原越の東北門址や太宰府口の北御門の遺址を經て北帝の頂上に上り、尾根傳ひに南方の最高所に到る事が出來る。城址內に於て建造物の遺址と見るべき礎石で「芋のがんぎ」の東北に存するものは最も大規模で、四十四箇の礎石が遺存し、附近から出土した八葉蓮辯の丸瓦は築城常時の遺物で、佐賀市徵古館に出陳せられて居る。山頂南方の高所に立てば筑紫平野竝に筑紫山脈の諸峯を一眸に集め、太宰府附近一帶の地形を大觀する事が出來る。

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