足利学校

足利學校址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

一条の道路を距てて鑁阿寺の東南にあります。遺跡の主要部はほぼ四角形となっていて、総面積約1万6,000m²(5,000坪)。なかに聖堂が建っています。聖堂は五間五面重層四注造本瓦葺で江戸時代前期の寛文年間(1661~1673年)の建築です。内陣に孔子の木像が安置されています。胎内にある墨書銘によると室町時代の天文年間(1532~1555年)に製作されたもので、高さ約75cm、非常に優秀な作です。足利学校の起源は明らかでありませんが、永享年間(1429~1441年)にはすでに足利学校と称して存在していたことは明らかで、戦国時代にもここだけは読書の声が絶えませんでした。代々僧侶が校主となり、江戸末期に至るまで長い間にわたって日本の文教を稗補したところ多く、その当時学修に供された漢籍で現在に伝えられているものも少なくありません。それらは遺跡に建設された図書館内に陳列されています。次に記すものはその2~3に過ぎません。

  • 貞観政要 慶長木活本 8冊
  • 周礼 宋板 1冊 巻末に近藤守重の考証があります。
  • 周易註疏 宋版 13冊
※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行
足利学校跡

令和に見に行くなら

名称
足利学校
かな
あしかががっこう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
栃木県足利市昌平町2338
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

一條の道路を距てゝ鑁阿寺の東南にある。遺址の主要部は略ぼ四角形をなし、總面積約一六〇アール(五千坪)。中に聖堂が建つて居る。聖堂は五閒五面重層四注造本瓦葺で寬文年閒の建築である。內陣に孔子の木像が安置されて居る。胎內に存する墨書銘によると天文年閒に製作されたもので、高さ約七五糎(二尺五寸)頗る優秀なる作である。足利學校の起源は詳かでないが、永享年閒既に足利學校と稱して存在して居たことは明かで、戰國時代にもこゝのみは讀書の聲が絕えなかつた。世々僧を以て校主となし、江戶末期に至るまで長き閒に亙りわが國の文敎を稗補した所多く、その當時學修に供せられた漢籍の今に傳へられて居るものも少くない。それらは遺址に建設された圖書館內に陳列されて居る。左に記するものはその二三に過ぎない。

  • 貞觀政要 慶長木活本 八册
  • 周禮 宋板 一册 卷末に近藤守重の考證がある。
  • 周易註疏 宋版 十三册

足利・太田のみどころ