田原坂古戦場

田原坂古戰場
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

木葉駅の東約2km、鹿本郡田原村にあり、自動車の便があります。那知船底谷の東、七本北の谷の西、北は鈴麦の低地を控え、南の一方はやや平坦、三池往還豊岡の中央を貫き、休居以北に至って坂路となります。これを田原坂と呼び、明治10年(1877年)西南戦争における激戦地です。天然の要害となり、薩軍はこの険によって官軍の連絡を阻み、死力を尽して奮戦し、3月4日から同20日にわたる17昼夜の激戦に、両軍の死傷4,000に上ったといいます。有栖川宮熾仁親王御染筆の明治13年(1880年)建設の崇烈碑が建っています。そばの人家に弾痕の室と呼ばれる当時の家屋の一室を保存し、官薩両軍使用の銃弾丸、小銃、軍刀等の兵器、軍服、その他各種の遺留品を蒐集陳列しています。

木葉駅の北に官軍墳墓があり、谷村計介以下戦没者の墓が並んでいます。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
田原坂古戦場
かな
たばるざかこせんじょう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
熊本県熊本市北区植木町豊岡
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

木葉驛の東約二粁、鹿本郡田原村にあり、自動車の便がある。那知船底谷の東、七本北の谷の西、北は鈴麥の低地を控へ、南の一方稍々平坦にして、三池往還豐岡の中央を貫き、休居以北に至つて坂路となる。これを田原坂と稱し、明治十年西南役に於ける激戰地である。天然の要害をなし、薩軍この嶮によりて官軍の連絡を沮み、死力を盡して奮戰し、三月四日より同二十日にわたる十七晝夜の激戰に、兩軍の死傷四千に上つたと云ふ。有栖川宮熾仁親王御染筆の明治十三年建設の崇烈碑が建つて居る。傍の人家に彈痕の室と稱する當時の家屋の一室を遺存し、官薩兩軍使用の銃彈丸、小銃、軍刀等の兵器、軍服、その他各種の遺留品を蒐集陳列して居る。

木葉驛の北に官軍墳墓があり、谷村計介以下戰歿者の墓が竝んである。

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