書寫山圓教寺
昭和初期のガイド文
播磨高岡の北約8km、姫路駅の西北約12km、書写山の頂上景勝の地にあります。藤原時代村上天皇の御宇性空上人によって開かれた寺で、西国順礼二十七番観音の札所として名高いところです。花山、後白河、後醍醐諸帝が行幸されたこともあります。鎌倉時代の元弘元年(1331年)雷火により諸堂が炎上しましたが、数年をおかず再建されました。現存の大講堂、鐘楼などは当時の再建で、その他、古建築として常行堂、食堂、金剛堂等があります。摩尼殿(本堂)は大正10年(1921年)に焼失しましたが、七間十面単層入母屋造の大殿堂が再建されました。
大講堂[国宝] 本堂の後方幽邃の地にあり、元弘年間の再建にして、七間六面、重層、屋根入母屋造本瓦葺の大堂宇です。その外観においても、また内陣外陣の区劃を厳重にしている点においても、よく天台宗仏殿の形式を示し、須弥壇は中央の一段低い土間に設け、その壇上に国宝の釈迦三尊を安置しています。内外の構造および手法は非常に雄大で、日本の仏寺建築中天台宗仏殿の貴重な遺構です。
釈迦如来および両脇侍像[国宝] 講堂の須弥壇上に安置され、三尊とも一木造漆箔の像で、相好にも襞褶にも平安朝の特色が認められる剛快な作です。中尊は坐像にして高さ174cm、両脇侍は立像にして各約189cm、両脇侍の光背は仏体と同時の作ですが、中尊の光背と三尊の台座は鎌倉時代の補作です。
四天王立像[国宝] 講堂内に安置されています。木造で高さ144~163cm、刀法は一木造の古法を用い、姿態生気に富んだ藤原時代の作です。
鐘楼[国宝] 大講堂から金剛堂に至る途中にあります。三間二面重層、袴腰、屋根入母屋造本瓦葺、元弘2年(1332年)に再建されたものですが、後世の改作が多いです。
金剛堂[国宝] 鐘楼のそばから少し奥へ行ったところにあります。三間三面、単層、屋根入母屋造、本瓦葺朱塗の小建築ですが、その手法様式に室町時代末期の特徴を示した建築です。
奥ノ院 開山性空上人の木像を安置する開山堂、この山鎮護の神を祀る一間社春日造の護法堂、および不動堂などもあって一仙境となっています。
令和に見に行くなら
- 名称
- 書寫山圓教寺
- かな
- しょしゃざんえんぎょうじ
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 兵庫県姫路市書写2968
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
播磨高岡の北約八粁、姬路驛の西北約一二粁、書寫山の頂上景勝の地にあり。藤原時代村上天皇の御宇性空上人によつて開かれた寺で、西國順禮二十七番觀音の札所として名高い。花山、後白河、後醍醐諸帝の行幸されたこともある。元弘元年雷火に諸堂炎上したが、數年を出でずして再建された。現存の大講堂、鐘樓などは當時の再建で、その他、古建築として常行堂、食堂、金剛堂等がある。摩尼殿(本堂)は大正十年に燒失したが、七閒十面單層入母屋造の大殿堂が再建された。
大講堂[國寶] 本堂の後方幽邃の地にあり、元弘年閒の再建にして、七閒六面、重層、屋根入母屋造本瓦葺の大堂宇である。その外觀に於てまた內陣外陣の區劃を嚴重にせる點に於ても、よく天臺宗佛殿の形式を示し、須彌壇は中央の一段低き土閒に設け、その壇上に國寶の釋迦三尊を安置して居る。內外の構造及手法頗る雄大にして、我が佛寺建築中天臺宗佛殿の貴重な遺構である。
釋迦如來及兩脇侍像[國寶] 講堂の須彌壇上に安置され、三尊共一木造漆箔の像で、相好にも襞褶にも平安朝の特色が認められる剛快な作である。中尊は坐像にして高さ四尺六寸、兩脇侍は立像にして各約五尺、兩脇侍の光背は佛體と同時の作であるが、中尊の光背と三尊の臺座は鐮倉時代の補作である。
四天王立像[國寶] 講堂內に安置されて居る。木造高さ三尺八寸乃至四尺三寸、刀法は一木造の古法を用ゐ、姿態生氣に富める藤原時代の作である。
鐘樓[國寶] 大講堂から金剛堂に至る途中にある。三閒二面重層、袴腰、屋根入母屋造本瓦葺、元弘二年に再建されたものであるが、後世の改作が多い。
金剛堂[國寶] 鐘樓の傍から少しく奧へ行つた所にある。三閒三面、單層、屋根入母屋造、本瓦葺朱塗の小建築であるが、その手法樣式に室町時代末期の特徵を示した建築である。
奧ノ院 開山性空上人の木像を安置せる開山堂、當山鎭護の神を祀れる一閒社春日造の護法堂、及不動堂等ありて一仙境をなして居る。