姫路城

姬路城[指定史蹟、國寶]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

姫路駅の北1.5km姫路市本町にあります。市のほぼ中央に位置し、白鷺城とも呼ばれます。姫山を中心にその付近の平地を含んで造営され、いわゆる平山城に属します。内、中、外の三廊からなり各濠を巡らせかつ城の東に市川あって外郭線に沿って城を半周し、自然の豪池をなしています。城はもと赤松貞範の創始といい、小寺相模守頼秀の所築といいますがいずれも定かではありません。室町時代の文明の頃(1469~1487年)赤松政則がここに居住し、政則が置塩山に移ると、執事の小寺豊職に与えて依頼子孫が相継いでここにいましたが、安土桃山時代の天正8年(1580年)秀吉が城郭を修めて中国征伐の拠点としました。慶長5年(1600年)池田輝政が本城に入り、同15年(1610年)5層の天守閣を起し3重の濠を巡らせ、また内外を修理して姫路城の規模はこの際に完成しました。その後松平榊原、本多、酒井の諸氏がしばしば更替して明治維新に至りました。維新後三の丸は陸軍第十師団の設置によりすべて撤去されましたが、本丸、同天守閣、西丸等、楼門、藻塁および土塀等の遺構がなお現存しよく旧規を保守しています。中郭は同じく第十師団の諸廠舎および練兵場等となり、外郭は町屋となってともにわずかに濠や門跡等が遺存します。城の東公園前から入れば、旧三の丸口で、ここは東の要害で喜斎門と呼ぶ城門の石塁が遺存しています。ここから道を進んで、との小形枡形門2か所を潜りへの門を経て天守閣の北を西行し、さらに南行して6つの水門を通過して天守閣入口に達します。この付近は構造規模複雑で厳重を極め、近世築城術の粋を蒐めた感があります。

天守閣は大小の天守を巧みに渡櫓をもって連結し、極めて複雑な規模を有します。大天守は5層で内部6層となり、地階1層あり。西小天守は3層で内部もまた3層、地階2層を有しています。また乾小天守は3層、内部4層で地階1層を有しています。東小天守は3層で内部3層、地階1層があります。また附属の台所は単層で内部は一部分2層となっていますが、各櫓いずれも屋根本瓦葺で破風は変化を尽し、大小各種の窓と挟間および銃眼の配置は特殊の建築美を発揮しています。元禄、宝永等の年度に修理を経ています。北縁の渡櫓は俗に焔硝蔵といい、結構よく残り数室に別たれています。天守閣の南にお菊井戸あり、皿屋敷の伝説を伝えています。これよりりの門を経て上山里または対面所とも呼ばれる二の丸跡に入って、腹切丸を見、備前門の前を過ぎて井郭櫓、これに続く旧番所を見、りの高麗門を潜れば西口にぬの門あり、三層楼門で屋根切妻造、本瓦葺、鉄板にて被覆し、よく旧状を保ち、この門に続く渡櫓は重層で内部を数区に分かれています。ここから本丸石塁下を迂廻して菱の門から天守閣に至る道に合します。

菱の門はよく旧態を保ち、規模雄大で二層桜門をなし、屋根入母屋造、本瓦葺、南口から二の丸に入る関門をなしています。門の東側に三国堀と称し、切石をもって方形に畳み、水をたたえています。ここからい、ろの脇戸付高麗門およびは、にの桜門を通過して天守閣の北に達します。

西の丸は別名中書丸と呼び広濶なる台地上を占め、菱の門のそばから緩やかな坂を上って達します。石塁をもって囲まれた曲がりくねる渡櫓がその上に並び建ち、隅櫓存し、外側に幅2mの廊下を設け、内方に大小の部屋を連ねています。

天守閣その他各部の遺構は現在有料で公開観覧させています。また内郭の北部にある細長い地域は姫山公園となっています。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行
姫路城 姫路城平面図

令和に見に行くなら

名称
姫路城
かな
ひめじじょう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
兵庫県姫路市本町68
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

姬路驛の北一粁半姬路市本町にある。市の略中央に位し、一名白鷺城と呼ぶ。姬山を中心にその附近の平地を含みて經營せられ、所謂平山城に屬する。內、中、外の三廊から成り各濠を繞らし且城の東に市川ありて外郭線に沿ひて城を半周し、自然の豪池をなして居る。城はもと赤松貞範の創始と云ひ、小寺相模守賴秀の所築と云ふも共に詳かでない。文明の頃赤松政則こゝに居り、政則置鹽山に移るや、執事小寺豐職に附與せしより子孫相繼いでこゝに居たが、天正八年秀吉城郭を修めて中國征伐の根據となした。慶長五年池田輝政本城に入り、同十五年五層の天守閣を起し三重の濠を繞らし、また內外を修理して姬路城の規模この際に成つた。その後松平榊原、本多、酒井の諸氏屢々更替して明治維新に至つた。維新後三の丸は陸軍第十師團の設置により悉く撤去されたが、本丸、同天守閣、西丸等、樓門、藻壘及土塀等の遺構がなほ現存しよく舊規を保守して居る。中郭は同じく第十師團の諸廠舍及び練兵場等となり、外郭は町屋となつて共に僅に濠や門址等が遺存する。城の東方公園前から入れば、舊三の丸口で、こゝは東の要害で喜齋門と呼ぶ城門の石壘が遺存して居る。これより道を進みて、との小形枡形門二箇を潛りへの門を經て天守閣の北を西行し、更に南行して六箇の水門を通過して天守閣入口に達する。この附近は構造規模複雜で嚴重を極め、近世築城術の粹を蒐めた感がある。

天守閣は大小の天守を巧みに渡櫓を以て連結し、極めて複雜なる規模を有する。大天守は五層で內部六層をなし、地階一層あり。西小天守は三層で內部また三層、地階二層を有して居る。また乾小天守は三層、內部四層で地階一層を有して居る。東小天守は三層で內部三層、地階一層がある。また附屬の臺所は單層で內部は一部分二層をなして居るが、各櫓何れも屋根本瓦葺で破風は變化を盡し、大小各種の窓と挾閒及び銃眼の配置は特殊の建築美を發揮して居る。元祿、寶永等の年度に修理を經て居る。北緣の渡櫓は俗に焔硝藏と云ひ、結構よく存し數室に別たれて居る。天守閣の南にお菊井戶あり、皿屋敷の傳說を傳へて居る。これよりりの門を經て上山里または對面所とも呼ばれる二の丸址に入りて、腹切丸を見、備前門の前を過ぎて井郭櫓、これに續く舊番所を見、りの高麗門を潛れば西口にぬの門あり、三層樓門で屋根切妻造、本瓦葺、鐵板にて被覆し、よく舊狀を保ち、この門に續く渡櫓は重層で內部を數區に別つて居る。これより本丸石壘下を迂廻して菱の門から天守閣に至る道に合する。

菱の門はよく舊態を保ち、規模雄大で二層櫻門をなし、屋根入母屋造、本瓦葺、南口から二の丸に入る關門をなして居る。門の東側に三國堀と稱し、切石を以て方形に疊み、水を湛へて居る。これよりい、ろの脇戶付高麗門及びは、にの櫻門を通過して天守閣の北に達する。

西の丸は別名中書丸と呼び廣濶なる臺地上を占め、菱の門の傍から緩かな坂を上りて達する。石壘を以て圍まれた蜿蜒たる渡櫓その上に竝び建ち、隅櫓存し、外側に幅二米の廊下を設け、內方に大小の部屋を連ねて居る。

天守閣その他各部の遺構は今有料で公開縱覽せしめて居る。また內郭の北部にある細長い地域は姬山公園となつて居る。

姫路のみどころ