徳川忠長の墓
駿河大納言忠長墓
昭和初期のガイド文
高崎駅の北約0.5km、市内通町大信寺の境内にあります。大きな五輪塔で正面に葵紋を冠して「峯厳院殿御宝塔」の七字が刻されてあります。忠長は徳川秀忠の次男で幼名を国千代といい、寛永元年(1624年)駿河遠江五十五万石に封じられました。後に大納言となりましたが素行が悪く、所領を没収されて高崎城主に預けられ、寛永10年(1633年)ついに死を命ぜられました。二十八歳の頃です。
※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 徳川忠長の墓
- かな
- とくがわただながのはか
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 群馬県高崎市通町
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
驛の北約半粁、市內通町大信寺の境內にある。大なる五輪塔で正面に葵紋を冠して「峯嚴院殿御寶塔」の七字が刻されてある。忠長は德川秀忠の次男で幼名を國千代と云ひ、寬永元年駿河遠江五十五萬石に封ぜられた。後大納言となつたが素行修まらず、所領を沒收されて高崎城主に預けられ、寬永十年終に死を命ぜられた。時に歲二十八。