石手寺
昭和初期のガイド文
道後湯之町にあり、この寺の創建は神亀年間(奈良時代)にありと伝え、はじめは安養寺と称し、後江戸時代前期の寛永年間(1624~1644年)に再興して現在の寺名に改めたといいます。四国遍路第五十一番の札所で楼門、本堂、三重塔等いずれも古建築です。
楼門[国宝] 三間一戸の楼門で、屋根は本瓦葺、軒二重繁棰、桝組は和様三手先、上層には尾棰支輪小天井台輪を加えています。蟇股には各種の唐草文様の透彫を嵌めています。形態木割雄大にして軒深く整美し、鎌倉時代における楼門建築の優秀な遺構です。
本堂[国宝] 五間五面、入母屋造、本瓦葺の建築で、軒二重繁棰、枡組は和様出組を用い、枡組の間には斗束を立てています。内外陣共化粧屋根裏内陣中央に四天柱あって須弥壇を設けています。構造簡明風姿軽快、鎌倉時代の特色を見るに足るものです。
塔婆[国宝] 方三間本瓦葺の三層塔婆で、鉄製相輪を載き、軒二重繁棰、枡組は各層ともに和様三手先を組み尾棰を添え支輪小天井台輪があり、初層内部は格天井中央に須弥壇があり、極彩色の装飾文様があります。隅軒に反を有し、軽快にして安定を得た鎌倉時代末期の好建築です。
鐘楼[国宝] 三間二面重層の建物で、袴腰入母屋造檜皮葺、軒および組物は楼門と同様です。上部内部の柱に元弘3年(1333年)9月21日建立の銘文があります。鎌倉末期の軽快な建物です。
銅鐘[国宝] 鐘楼に懸かっています。高さ129cm。口径68cm、銘に「願主僧良円大徳僧慶賢大徳興隆寺建長三年歳次辛亥六月八日大工河内国丹治国忠」とあり、追銘に「任御示現彼鐘自河内国来臨也菅生山大宝寺一山太法主別当大旦那大伴朝臣大野紀州利直一結衆東西真俗等天文十七戊申十一月吉日三十貫合力宗岸妙一吉久」とあります。それでもとこの鐘は同国周桑郡徳田村の興隆寺に建長3年(1251年)に寄進されたものを、室町時代の天文17年(1548年)に浮穴郡菅生村の大宝寺に移されたことが知られ、それがまたいつの頃にかこの寺に転移したものとなります。追銘の「彼鐘自河内来臨也」は、古銘に「大工河内国丹治国忠」とあるので河内国で造られて伊予に来たと考えられます。現在興隆寺には弘安9年(1286年)在銘大工助安とある銅鐘(国宝)が残っています。
灯籠台 八角形鉄製にして、側に「安養寺奉施入灯籠(中略)嘉元四年丙午」うんぬんの鋳出し銘があります。
令和に見に行くなら
- 名称
- 石手寺
- かな
- いしてじ
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 愛媛県松山市石手2-9-21
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
道後湯之町にあり、當寺の創建は神龜年閒(奈良時代)にありと傳へ、はじめ安養寺と稱し、後寬永年閒に再興して今の寺名に改めたと云ふ。四國遍路第五十一番の札所で樓門、本堂、三重塔婆等何れも古建築である。
樓門[國寶] 三閒一戶の樓門で、屋根は本瓦葺、軒二重繁棰、桝組は和樣三手先、上層には尾棰支輪小天井臺輪を加へて居る。蟇股には各種の唐草文樣の透彫を嵌めて居る。形態木割雄大にして軒深く整美し、鐮倉時代に於ける樓門建築の優秀な遺構である。
本堂[國寶] 五閒五面、入母屋造、本瓦葺の建築で、軒二重繁棰、枡組は和樣出組を用ゐ、枡組の閒には斗束を立てゝ居る。內外陣共化粧屋根裏內陣中央に四天柱ありて須彌壇を設く。構造簡明風姿輕快、鐮倉時代の特色を見るに足るものである。
塔婆[國寶] 方三閒本瓦葺の三層塔婆で、鐵製相輪を載き、軒二重繁棰、枡組は各層ともに和樣三手先を組み尾棰を添へ支輪小天井臺輪があり、初層內部は格天井中央に須彌壇があり、極彩色の裝飾文樣がある、隅軒に反を有し、輕快にして安定を得た鐮倉時代末期の好建築である。
鐘樓[國寶] 三閒二面重層の建物で、袴腰入母屋造檜皮葺、軒及組物は樓門と同樣である。上部內部の柱に元弘三年九月二十一日建立の銘文がある。鐮倉末期の輕快な建物である。
銅鐘[國寶] 鐘樓に懸つて居る。高さ三尺四寸。口徑一尺八寸、銘に「願主僧良圓大德僧慶賢大德興隆寺建長三年歲次辛亥六月八日大工河內國丹治國忠」とあり、追銘に「任御示現彼鐘自河內國來臨也菅生山大寶寺一山太法主別當大旦那大伴朝臣大野紀州利直一結衆東西眞俗等天文十七戊申十一月吉日三十貫合力宗岸妙一吉久」とある。それでもとこの鐘は同國周桑郡德田村の興隆寺に建長三年に寄進せられたのを、天文十七年に浮穴郡菅生村の大寶寺に移されたことが知られ、それがまた何時の頃にか當寺に轉移したのである。追銘の「彼鐘自河內來臨也」は、古銘に「大工河內國丹治國忠」とあるから河內國で造られて伊豫に來たと考へたのである。現在興隆寺には弘安九年在銘大工助安とある銅鐘(國寶)が存して居る。
燈籠臺 八角形鐵製にして、側に「安養寺奉施入燈籠(中略)嘉元四年丙午」云々の鑄出し銘がある。