松山市

松山市
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

道後平野の北東部に位置し、城山を中心に、その周囲を巡って市街となっている城下町です。この地は和名抄の味酒郷の一部で、現時の松山は江戸時代前期の慶長8年(1603年)加藤左馬助嘉明が勝山に築城して松山と改称してから始まり、寛永4年(1627年)蒲生秀行の次男忠知が出羽上山から移りました。この頃市街はようやく完備し、同12年(1635年)松平隠岐守定行が城主となって以来松平氏の城下でした。

明治22年(1889年)市制施行、県治および商工業の中心地として発達を遂げ、現在人口9万人におよびました。旧藩時代は城西方面が商業中心地でしたが、徐々に城南面に移って、現在は大街道、湊町が最も繁華な通りです。

市の産業は繊維工業が最も大きく、すなわち紡績業とともに古来著名な伊予絣の機織が盛んで、また捺染木綿の産が非常に多く、その産額は昭和5年(1930年)において440万反、330万円におよびました。その他タオル、綿ネルの機織、酒の醸造、塵紙製造の業も盛んで、この地の特産干油揚は年産6万円余あります。花籠類の竹製品はこの地方の特産品で、土産物としてのみならず海外市場にまで進出しています。

※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行

令和に見に行くなら

名称
松山市
かな
まつやまし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
愛媛県松山市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

道後平野の北東部に位し、城山を中心に、その周圍を繞つて市街をなした城下町である。この地は和名抄の味酒鄕の一部で、現時の松山は慶長八年加藤左馬助嘉明勝山に築城して松山と改稱してから始まり、寬永四年蒲生秀行の次男忠知出羽上山から移つた。この頃市街漸く完備し、同十二年松平隱岐守定行城主となりて爾來松平氏の城下であつた。

明治二十二年市制施行、縣治及商工業の中心地として發達を遂げ、今人口九萬に及んだ。舊藩時代は城西方面が商業中心地であつたが、漸次城南方面に移つて、今は大街道、湊町が最も繁華な通りである。

市の產業は纖維工業が最も大きい。卽ち紡績業と共に古來著名な伊豫絣の機織盛んで、また捺染木綿の產が頗る多く、その產額は昭和五年に於て四百四十萬反、三百三十萬圓に及んだ。その他タオル、綿ネルの機織、酒の釀造、塵紙製造の業も盛んで、この地の特產干油揚は年產六萬圓餘ある。花籠類の竹製品はこの地方の特產品で、土產物としてのみならず海外市場にまで進出して居る。

松山・道後のみどころ