道後温泉
昭和初期のガイド文
松山駅の東北3kmあまり、電車および目動車の便があります。湯町は松山市の東郊にあたり、近く勝山城址と相対し、背後に丘陵を背負い伊佐爾波神社の森、湯神社の冠山などが指呼されます。
道後は神代において大己貴命、少彦名命の遺事を伝え、その少彦名命の足跡ありという玉の石は今に温泉の側にあります。上代においては熊襲の叛乱や三韓との交渉事変のため、景行天皇、仲哀天皇、神功皇后、聖徳太子、舒明天皇、斉明天皇、中大兄皇子(天智)、大海人皇子(天武)など筑紫への途上ここに御入湯されたこともあり、日本の温泉のなかで最早く世に知られる光栄を有しました。現在は海岸から8kmあまりも離れていますが、当時は瀬戸内海の静かな波がこの温泉の湧くあたりまで打ち寄せたものらしく、斉明天皇の御製にも、「熟田津に船乗りせんと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎてな」と詠まれています。熟田津は現在の道後付近のことで日本書紀には「泊伊予熟田津石湯行宮」と書いています。聖徳太子行啓の折は湯の霊験を歎じて伊佐爾波岡に碑を建てられましたが、後震災のためにその所在を失いました。そこの碑文は釈日本紀に記されています。
温泉はアルカリ性単純泉で、温度39~47度、四国における唯一の温鉱泉で、胃腸病、呼吸器病、神経系諸症、皮膚病、婦人病などに効くといいます。浴館は振鷲閣といい霊の湯、神の湯、養生湯にわかれ、別に鷺湯、砂湯、西湯、松湯などがあり、旅館は約70軒もありますがいずれも内湯がありません。
付近にはこの温泉にちなみ深き大己貴命、少彦名命を祀った冠山の湯神社、応神天皇を祀った伊佐爾波神社、一遍上人誕生の旧蹟である奥谷の宝厳寺、河野氏の湯築城址の道後公園、河野氏の香華院で伊予節に歌われた十六日桜のある竜穏寺、春は吉野桜に彩られる常信寺、道後十六谷のなかでも幽邃第一とされる鴉渓、石手寺の名に高い虚空院安養寺、釣漁納涼に適する石手川の岩せき、その上流にある幽邃境湧ヶ淵など見るべき勝地が多いところです。
旅館はふなや、とらや、道後ホテル、岩井屋、大和屋本店、大和屋支店、川吉、森八重垣、すし元、かど半、村井、国中ほか数十軒。
令和に見に行くなら
- 名称
- 道後温泉
- かな
- どうごおんせん
- 種別
- 温泉
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 愛媛県松山市道後湯之町
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
驛の東北三粁餘、電車及目動車の便がある。湯町は松山市の東郊に當り、近く勝山城址と相對し、背後に丘陵を負うて伊佐爾波神社の森、湯神社の冠山などが指呼される。
道後は神代に於て大己貴命、少彥名命の遺事を傳へ、その少彥名命の足跡ありと云ふ玉の石は今に溫泉の側にある。降て上代に於ては熊襲の叛亂や三韓との交涉事變のため、景行天皇、仲哀天皇、神功皇后、聖德太子、舒明天皇、齊明天皇、中大兄皇子(天智)、大海人皇子(天武)など筑紫への途次こゝに御入湯あらせられたこともあり、日本の溫泉中最早く世に知らるゝの光榮を有した。今は海岸から八粁餘も離れて居るが、當時は瀨戶內海の靜な波がこの溫泉の湧く邊りまで打ち寄せたものらしく、齊明天皇の御製にも、「熟田津に船乘りせんと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎてな」と詠まれて居る。熟田津は今の道後附近のことで日本書紀には「泊伊豫熟田津石湯行宮」と書いて居る。聖德太子行啓の折は湯の靈驗を歎じて伊佐爾波岡に碑を建てられたが、後震災のためにその所在を失つた。そこの碑文は釋日本紀に見えて居る。
溫泉はアルカリ性單純泉で、溫度三九度乃至四十七度、四國に於ける唯一の溫鑛泉で、胃腸病、呼吸器病、神經系諸症、皮膚病、婦人病などに效くと云ふ。浴館は振鷲閣と云ひ靈の湯、神の湯、養生湯にわかれ、別に鷺湯、砂湯、西湯、松湯などがあり、旅館は約七十軒もあるがいづれも內湯が無い。
附近にはこの溫泉に因み深き大己貴命、少彥名命を祀つた冠山の湯神社、應神天皇を祀つた伊佐爾波神社、一遍上人誕生の舊蹟たる奧谷の寶嚴寺、河野氏の湯築城址の道後公園、河野氏の香華院で伊豫節に歌はれた十六日櫻のある龍穩寺、春は吉野櫻に粧はれる常信寺、道後十六谷中幽邃第一の稱ある鴉溪、石手寺の名に高き虛空院安養寺、釣漁納涼に適する石手川の岩せき、その上流にある幽邃境湧ケ淵など見るべき勝地が多い。
旅館 ふなや、とらや、道後ホテル、岩井屋、大和屋本店、大和屋支店、川吉、森八重垣、すし元、かど半、村井、國中外數十軒。