松山城
昭和初期のガイド文
松山駅の東0.5km、電車八俣下車、市の中央に位置し、市内堀之内にあります。勝山城ともいい、安土桃山時代の慶長年間(1596~1615年)加藤嘉明がこれを築き松前城から移りました。江戸時代前期の寛永4年(1627年)嘉明が会津に遷され、蒲生忠知がこれに代わりましたが、久松(松平)定行が入城するにおよび、同19年(1642年)、五層の天守閣を改修して三層とし、三の丸を設け、東北に大手を構え、北の山腹に高石垣を築き、櫓を構築する等大いに面目を改め、以来子孫世襲して維新に至りました。明治7年(1874年)公園となり聚楽園と号しましたが、同10年(1877年)陸軍省所管となり、同43年(1910年)再び公園となって現在に至りました。旧時の建造物がよく遺存し、筒井門、乾門は加藤嘉明の築造になり、天守閣、戸無門、太鼓門等は江戸時代後期の天明4年(1784年)に焼失し、文政3年(1820年)起工、安政元年(1854年)落成しました。太鼓門を潜り、一の門、筋鉄門、内門、仕切門等を潜れば天守閣に達します。昭和8年(1933年)7月天守閣附属の小天守および西櫓の建物を焼失しました。天守閣には甲冑および刀剣、戦利品等を陳列して有料で観覧することができます。
令和に見に行くなら
- 名称
- 松山城
- かな
- まつやまじょう
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 愛媛県松山市丸之内1
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
驛の東半粁、電車八俣下車、市の中央に位し、市內堀之內にある。勝山城とも云ひ、慶長年閒加藤嘉明これを築き松前城から移つた。寬永四年嘉明會津に遷され、蒲生忠知これに代つたが、久松(松平)定行入城するに及び、同十九年、五層の天守閣を改修して三層となし、三の丸を設け、東北に大手を構へ、北方の山腹に高石垣を築き、櫓を構築する等大いに面目を改め、爾來子孫世襲して維新に至つた。明治七年公園となし聚樂園と號したが、同十年陸軍省所管となり、同四十三年再び公園となつて現在に至つた。舊時の建造物よく遺存し、筒井門、乾門は加藤嘉明の築造にかゝり、天守閣、戶無門、太鼓門等は天明四年に燒失し、文政三年起工、安政元年落成した。太鼓門を潛り、一の門、筋鐵門、內門、仕切門等を潛れば天守閣に達する。昭和八年七月天守閣附屬の小天守及西櫓の建物を燒失した。天守閣には甲冑及刀劍、戰利品等を陳列して有料で觀覽せしめる。