厳島神社

嚴島神社[官幣中社]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

宮島駅の東南海上約3km、厳島町にあり、駅前から連絡船の便があります。祭神は市杵島姫命ですが、神仏混淆の際は、観世音菩薩として、あるいはまた弁財天女に付会し、厳島弁天と称して崇拝されました。創建の年代は明らかでありませんが、平安時代の弘仁2年(811年)名神例幣に預り、延喜の制名神大社に列しているので早くからこの島に鎮まっていたことが明白で、後に安芸国の一宮とされました。平清盛が安芸守となるにおよび非常にこの社を信仰し、その一門および公卿で参詣するものが多く、承安4年(1174年)には後白河法皇および建春門院の御幸あり、また治承4年(1180年)には高倉上皇前後両度の御幸がありました。鎌倉時代にも源頼朝がこれを尊信してから将軍家代々厚く信仰し、藤原頼経、同頼嗣、惟康親王等により奉納された兵庫鎖太刀、長覆輪太刀などが今に伝わり国宝となっています。建武3年(1336年)足利尊氏が東上の途上でこの社に詣でて参籠したことを伝え、同年造営料として当国宝茂郡の地を寄せ、次いで貞和4年(1348年)に廻廊等造営料として佐伯郡己斐村を寄進しています。室町時代の永徳元年(1381年)周防の大内義弘が造営料として賀茂郡志芳庄の地を寄せ、康応元年(1389年)には足利義満が諸将を従えて自ら社参しました。戦国の世には大内義隆が厚くこの社に帰依してしばしば社参をし寄進することもたびたびで、天文16年(1547年)に大鳥居を再建し奏請して後奈良天皇の勅額を拝受しました。毛利氏が安芸に起こり陶氏をこの島で討って家運を開いたことをもって尊信特に厚く、元就父子が大いに社殿を造営し、多くの社領を寄進しました。豊臣秀吉は安土桃山時代の天正15年(1587年)薩摩の島津氏を征伐の途中、3月18日厳島に来て社頭に参拝し、修理料として米五千石を寄進し、塔ヶ岡に大経堂を建立させるために一万石を寄進しました。その後文禄元年(1592年)朝鮮征伐の時にもその途上社参し戦勝を祈願し、ここで軍議をもったことは有名な事実です。江戸時代に入ってからは浅野氏の崇敬また厚く、社殿の造営修補等常に藩費をもって支弁しました。

例祭は6月17日に挙行され、その他の年中行事には多くの特殊神事があり、そのなかでも神衣献上式、年越祭、御島巡式、管絃祭、玉取祭、鎮火祭等が最も名高いものです。

神衣献上式は1月1日に執行され、新しい神衣を献じ、古い神衣を撤する儀式で、その作法厳粛鄭重を極めます。

年越祭は旧正月6日の夜行われ、俗に「六日年越」と称し、祭典後本社祓殿において神前予想相場立会式があります。式後古風な大福引があり、大いに賑わい、午後8時頃に終了します。

御島巡式は七浦神社祭とも称し、3月と9月の上旬に行われますが、そのほか5月15日には厳島講社員のために行われ、また3月から11月に至る間には参詣者のもとめに応じ随時挙行されます。この式は社伝によると祭神がこの島に天降りされた際、宮居の地を定めようとこの島を巡られた故事に起原を有すといい、御鳥食式を執行するものです。その次第はまず御師伶人の乗りこんだ御師船および賽客乗用の小早船および饗膳準備の台所船を艤し、早天御笠浜を発し、島を右に見つつ順次杉之浦、鷹巣浦、腰細浦、青海苔浦に至り、その浦々に鎮座したこの社の末社を巡拝し、次で養父崎に向かい、その沖合に差しかかると厳上に小祠養父崎神社があります。ここで神職舷頭に立って粢団子を海上に浮べ、伶人楽を奏でると二匹の神鴉が飛んで来てそれぞれこれを喙みます。これを御鳥食の式といいます。式後また船を進めて山白浜、須屋浦および御床の浦に至り、その地の末社を拝し本島を一周し終わります。御島巡り巡路の風景は変化に富み、時々伶人の奏する音楽は古雅で、また水手の船唄は非常に壮快です。

管絃祭は旧暦6月17日午後5時から挙行されます。その次第はまず鳳輦に御霊代を移御し、神職伶人等陪乗して大鳥居前に神幸、大鳥居前の儀を行い、神饌を献じ管絃を奏します。その管絃楽は倭琴、箏、琵琶、竜笛、篳、太鼓、鞨鼓および鉦鼓のいわゆる三管三鼓三絃を用い、古雅で優美です。これが終わると御座船は地御前、長浜大元および火焼前神社前に神幸し、各所でまた管絃を奏して戻ってきます。その巡幸には漕船御供船の水手等いずれも揃いの衣装を着け、ともに曳々声を発し、太鼓を打ち音頭を取って進み、勇壮を極めます。幾千百の参詣者がこれを見ようと大小の船に乗って追いかけます。

玉取祭は玉取延年祭とも称し、旧暦7月18日の昼間満潮時、社前の海上で行われます。海中の櫓に吊るされた宝珠を裸体の群集が争奪するものですが、その様子は壮観を極め、宝珠の取得者は神前に至り、祈願を受け神酒を戴き福神像その他の賞とともにこの宝珠を授与されます。当日は多数の拝観者で混雑します。

舞楽 この社の舞楽は古来有名なもので今なお古式を伝え、各種の祭典儀式に演奏されていますが、臨時に規定の初穂料を納めて奉納することができます。

社殿[国宝] 厳島の中央、海岸景勝の地を占め、右には御笠浜があり、左には西松原を控えています。背面には弥山を背負い、正面は海を控え、その間に社殿の建築があって山と海と社殿の3つが実に美しい諧調をなし、満潮時には海水が床下にまで来て社殿の浮び出た光景は他に比類のないものです。このような絶妙な社殿の構造がいつ考案されたか、それは平家全盛時代、平安時代の仁安3年(1168年)に平清盛が造営したものです。その後鎌倉時代に三度火災あって三度改築されていますが、その改築はほとんどすべて前の規模を踏襲しました。このようにして現存社殿中最も古いものは鎌倉時代に再建された客神社社殿で、本社をはじめその他の主要建築物は室町時代の弘治元年(1555年)毛利氏と陶氏の戦争によって社殿が汚れたというので、翌2年(1556年)に毛利元就が板をすべて張り替え、さらにその後永禄から元亀にかけて元就が大改築したものです。附属建築物には豊臣秀吉の建てた能楽台があり、大鳥居は明治8年(1875年)に再建されたものです。

社殿の配置は非常に変化に富み、複雑を極め、その平面の意匠は非常に自由です。中央に本社があり、その右側の前方には客神社があります。また左横には大国社および天神社が相並んでいます。その間を連接するに八曲りした百八間の廻廊があり、各間ごとに釣灯籠を懸けています。本社祓殿の前には平舞台、高舞台があり、正面の海上に遠く離れて建つ大鳥居が眺められます。社殿は木部を赤く塗り壁を白くし、屋根は檜皮葺で前方海水に臨み、後は緑滴る山を背負い、優麗温雅、なんとも言えない彩色美と構造美を発揮しています。社段の西出口には宝物館があり、やや離れて大願寺があり、西南の丘上には多宝塔があります。また東の入口に近く千畳閣および五層塔および末社荒胡子神社があります。次に参拝の順路にしたがい主要な社殿宝物およびその他のものを説明します。

客神社社殿[国宝] 社殿参拝順路の入口を入ると東廻廊の西北端にあります。鎌倉時代仁治2年(1241年)の再建でこの社の現存建築のなかで最古のものに属し、天忍穂耳尊を祀ります。本殿、幣殿、拝殿、祓殿の4棟からなり、本殿は五間四面単層切妻造、檜皮葺、拝殿は九間三面単層切妻造檜皮葺で左右妻部に廂が付いている、幣殿は一間一面本殿と拝殿を連ねています。祓殿は三間四面単層入母屋造の建築で、妻部を正面となし廂の中央を切って一段高くし、入口の屋根に高低の変化を与え諧調の美を発揮し、藤原末期の特徴を伝えています。

客神社から廻廊を少し進むと、干潮時には東側に淡水が湧出する鏡ヶ池が見られます。さらに進むと突当りに朝座舎があります。室町時代の建築で往時は勤番神職の参集したところで今社務所に使用されていますが、これも国宝になっています。ここから廻廊を西に折れて進むとまた鏡ヶ池があり、この池に近い岸上には卒塔婆石や康頼灯籠と呼ばれる古風な石灯籠があります。

揚水橋[国宝] 社務所から本社に至る途中の廻廊から陸地へ架けた橋です。橋の片側に天正の銘がある石の水槽があり、ここから水を汲んで神殿の用に供したので揚水橋の名となったといいます。構造は簡単ですが、橋梁建築中古いものの一例として注意されています。

本社[国宝] 社務所前を過ぎ西に進むと東廻廊は本社の拝殿と祓殿の中間に至って終わっています。本社の建築は室町時代弘治2年毛利元就の再建となり、その構造配置は大体客神社と同様で本殿幣殿拝殿祓殿からなっています。その他祓殿の正面には平舞台、高舞台を附属しています。平舞台は打ち開けて椽庭となり、中央に一殿高く高舞台を設け朱欄をめぐらしています。ここで舞楽が演奏されます。なお平舞台先端の左右には櫛磐窓神および豊磐窓神を祀れる門客神社があり、またその外方に接して楽屋があります。

本殿[国宝] 八間四面、単層切妻造、檜皮葺、室町時代の再建ですが、その構造様式は藤原末期の風格を伝えた優美な建築です。

拝殿[国宝] 九間三面単層入母屋造、檜皮葺、室町時代の建築です。内部は床総拭板敷で広く神楽殿を兼ねています。

祓殿[国宝] 三間六面、屋根は前面入母屋造となり、後面は拝殿の屋根に接続しています。四方の柱間は吹き放しとし、内部の床は総拭板敷になっています。

大鳥居[国宝] 本社の正面約160mの海中にあります。明治8年(1875年)の再建で総高さ16m、笠木の長さ23mあまりを有する雄大な鳥居で、額は有栖川宮熾仁親王の御染筆です。柱に転びがあり、上端島木を受けるところには台輪、下部には亀腹があり、控の児柱があり、笠木島木には反があり、覆屋根のある両部鳥居です。

大国神社本殿[国宝] 本社祓殿から西廻廊を南に進むと本殿の左側にあり、大国主神を祀る摂社で四間三面、単層屋根切妻造、檜皮葺、本社本殿と同時の建築です。

天神社本殿[国宝] 大国神社の後方にあり、菅原道真を祀れる摂社で、弘治2年の建築となり、素木造の寝殿造で非常に優雅な形態を備えています。

長橋[国宝] 大国神社から境内御垣ヶ原に通じる長さ21m、幅4.2mの橋で、弘治年間毛利元就等によって造られました。橋脚には赤間石を用い日本橋梁建築のなかでも貴重な遺構です。

反橋[国宝] 長橋から大国神社にもどり、西廻廊に出て西に進むとこの反橋の北端に達します。勅使橋とも称し、往時は上卿参向の時この橋を渡つたといいます。長さ21m、幅4.2m、弦月状に反り、両側に朱塗の高欄を設け、その擬宝珠のひとつに弘治3年(1557年)の銘があり、揚水橋などとともに日本の橋梁建築のなかの貴重な遺構です。

能楽台[国宝] 舞台および附属の階掛および楽屋からなり、反橋のところから西廻廊を北に進むと楽屋に達します。いずれも素木造で毛利元就の寄進となるものです。舞台は一間一面屋根切妻造、檜皮葺、四本柱は方柱で各柱間はいずれも開放し、後壁の鏡板には型のように青緑の松竹を描いています。現存する日本の能舞台の最古の例として貴重な遺構です。

宝物館 西廻廊を外に出ると左手に建っています。次に主要な宝物について説明します。

  • 平家納経および願文[国宝] 33巻 紙本著色、この経は法華経28巻、無量義経、観普賢経、阿弥陀経および般若心経が各1巻と願文1巻とからなり、清盛が自らこの願文を記してこの社へ奉納したものです。願文の巻頭に「櫛筆、仁安元年十一月十八日内大臣平朝臣清盛」とあります。本文は漢文で80行あり最後に「長寛二年九月弟子従二位行権中納言兼皇太后宮権大夫平朝臣清盛敬白」とあります。その願文によると清盛は深くこの社を崇敬し、そのご利益を得ることが極めて大きなものがあったので、家門繁昌子孫栄達、今世の願望が叶うことと来世の妙果も期待して、報賽のため自ら発起して、一族32人の人々に勧めてこれらの諸経を書写させ、荘厳に各自の意匠を凝らし金銅製の経箱に納めて寄進したのです。すなわち願文に「弟子並家督三品武衛将軍(重盛)及他子息等兼又舎弟将作大匠(頼盛)能州(教盛)若州(経盛)両刺史門人家僕都盧卅二人各分一品一巻所令尽善尽美也」とあります。それでこの納経は平安時代の長寛2年(1164年)に発願され仁安3年(1168年)まで3年間でできたものです。その間清盛は権中納言から権大納言となり内大臣となり仁安2年2月には一躍太政大臣となりました。こうしてその納経が今なお全部そのまま保存されていて、それに施された装飾は善美を尽したもので、経巻として紙を土台に、木と絹裂以外に金属玉類貝等その時代の装飾に用いられた材料をすべて使用して、種々の応用芸術の長所を総合させたものがすなわち平家納経です。装飾は各巻一様でなく各自に意匠を凝らし華麗を極めたもので、料紙の装飾としてまず金と銀、次に群青緑青が主として用いられ、またその色の美を加えるためにこれらの材料を種々の形に変化させ、色と形と複雑な変化からなる装飾法を巧妙に使用しています。また経文の文字にも金銀群青緑青等を巧みに地紙の色に合せて使用しています。このように色の美を巧妙に発揮しているのは現在の遺物中この経巻のほかに見ることができません。かくて経文書写の筆跡もまた麗しいものでそれぞれその筆者は判然しないが、幸いにも清盛自身が書いたものは皆奥書があります。すなわち法華経の法師品と阿弥陀経と般若心経の3巻で、その筆勢の見事なことは一門の中で傑出しています。画も応用の妙を尽し、これを表紙と見返しとに現したのみならず本紙にも描いています。なかには経文の内容と関係のあるものもあって、例えば法華経護持の普賢十羅刹女に因んで十羅刹女を装飾にして当時の優しい宮廷女房を現し、また普賢菩薩の東から影向の姿を画き、あるいは薬王菩薩本事品第二十三の表紙には葦手絵に経の文句を現しているものもあります。巻軸の装飾においても巻止の八相に鍍金の透彫金具が使用され、経巻の外題にも特に金属若くは瑠璃等の玉類に経題を彫刻し、あるいは字形を取り付けなどしてきらびやかに装飾し、軸も一巻ごとに意匠を変化しあるいは宝塔形とし、あるいは運蕾の形とする等、複雑な変化を求めようとしています。ここまでこの小さな巻軸と形式の一定したものに対して装飾の粋を尽したものは実に空前絶後です。全33巻中10巻は京都博物館に出陳されています。
  • 平家納経函[国宝] 1個 この函の装飾も中に納められた経巻の装飾に相応した立派なものです。函の心は銅で地を黒色とし蓋表および側面に銀製の雲と金製の竜との置金物を取り付けています。蓋表の中央には双竜に雲を配した丸文を置き中央上部に五輪塔を現しています。函は三重で内張に倭錦をもってしています。竜には鍍金が施されているため黒地に金銀の配色美しく荘厳な装飾美を発揮し、実に納経とともに善美を尽したものです。このように平家納経は芸術史上絵画史上宗教史上貴重な珍宝です。
  • 平家納経蔦絵巻櫃[国宝] 1合 福島正則がこの地の太守となった関係から平家納経の重宝なことを知って慶長7年(1602年)5月にこの立派な唐櫃を寄進してこれを永久に保存することを企図したものです。
  • 平家納経[国宝] 8巻 紺紙金銀泥、法華経7巻および観普賢経からなり、金銅の箱に納められています。表紙は紺地金銀泥の宝相花唐草、見返は金銀泥にて山水中に仏菩薩が描かれています。この方は清盛と弟頼盛との合力書写となるもので法華経巻第一の奥書にあるように一巻ごとに清盛兄弟の合筆書写になっているもので、これをその人の筆蹟として見れば微古の資料ともなり、また兄弟の人物の大小までが筆端に現れて興味深いものであり、この写経、もとは法華八巻あったのですがその第四巻を失って現在前田侯爵家に所蔵されています。
  • 金剛寿命陀羅尼経[国宝] 1巻 表紙見返ともに前の合筆法華経と同一の体裁で本文は紺紙金泥です。奥書にある親宗は清盛の室時子や建春門院と兄弟です。
  • 釈迦および諸尊箱仏[国宝] 1箇 両開きの小籠中に釈迦および諸菩薩像を刻み出したもので、中央は釈迦の坐像と六菩薩四羅漢の立像、左右には各釈迦の坐像および二菩藤二羅漢の立像が刻してあります。檀木造で多少彩色が加えられています。高野山金剛峯寺および普門院の枕本尊によく似たものですが、この社のものは外部の装飾が完備して金属彫刻の毘舎門天や唐革の透彫模様が完全な形式を備えていて左右両扉を閉じて小さな閂をかける装置までいっさい具足し、寵としての形体が知られ、現存小寵仏像中最も貴重なもので、中国唐代の作です。
  • 金銅仏具[国宝] 5個 金剛盤、五鈷鈴、独鈷、三鈷および五鈷があります。形状整斉、鑿工の技術の優れたものです。弘法大師将来と伝えていますが、藤原時代末期のものと思われます。
  • 扇[国宝] 1柄 白紙に金銀切箔砂子を散らしたものを地紙とし、黒塗の骨5本を付け、それに三条院花山院等六人の和歌を墨書したものです。社伝に書は久我通親の筆といいます。平安時代の治承4年(1180年)高倉院の厳島行幸の時奉納されたもののひとつであると伝えています。
  • 舞楽面[国宝] 9面 この社の彫刻類では舞楽面が最も傑出し、そのなかでも貴徳、散手の2面が双美です。按摩腫面の裏書によると、承安三年八月日盛国朝臣調進とあるから製作年代も確実に知られます。皆顔面に色漆を塗り、眼、眉、唇、歯などに異なった色漆を塗り、ある面には麻の捻糸をもって頭髪を植えています。9面中5面は東京帝室博物館に出陳され、この社には納曽利、祓頭、還城楽、陵王の4面が残っています。納曽利面には「厳島社納蘇利面承安□年□□台盤所調進」の銘があります。台盤所は清盛の室時子です。
  • 飾馬[国宝] 1体 木造、極整色、玉眼、蹄水牛、黒塗金覆輪の鞍を置いています。台黒地草花蒔絵金物鍍金。社伝によると鎌倉時代に奉納されたものでこのように古いものは極めて少ないものです。
  • 七絃琴[国宝] 平重衡所用と伝え、黒漆断文で製作は宋代のものと思われ、雷氏の製作であろうとされます。
  • 楽器[国宝] 2個 木製、奚婁および兆鼓でいずれも胴金地に彩色文があります。
  • 小形調度類[国宝] 七種 半臂は表大和錦、石帯は鳥油革に無文の巡方あり、飾太刀鍍金、平胡録、蒔絵鳳凰の丸紋、矢鍍金11本、檜扇表裏共極彩色二把および木製笏等で安徳天皇の御物と伝えています。これらは有職故実の有益な参考品であり、また藤原時代の趣味の一端が現れて誠に床しいところのあるものです。
  • 梅唐草蒔絵文台硯箱[国宝] 1組 梨子地に梅唐草を金銀で蒔いたもので、社伝に大内義隆の寄進といいます。
  • 扁額[国宝] 二面 木製銅字、周縁に彫刻があります。後奈良天皇の宸筆で、一面には「厳嶋大明神」、ほかの一面には「伊都岐島大明神」とあります。
  • 御判物帖[国宝] 2帖 本社に関する重要な古文書類70通を貼り込んだものです。
  • 狛犬[国宝] 14体 木造漆塗彩色、高さ21~60cm、いずれも破損はしていますが、その形態は後世のものとは違って一番の柔か味に富んでいます。鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)具注暦の裏文書にある、同三年造内宮玉殿荘厳調度用途注文に獅子狛犬大小二十六頭とあるものです。
  • 監革肩赤威甲冑[国宝] 1領 天文11年5月20日大内義隆の寄進したもので輪宝唐草の金具が付いています。
  • 小桜威甲冑[国宝] 1領 この社の武器類のなかで最も優れたもので、他に比類のない立派なものです。製作は藤原末期すなわち平家時代です。
  • 紺革威甲冑[国宝] 1領 源義光所用、胴丸で安芸守護武田氏重代の宝物でしたが、銀山落城の後大内氏の所有となり、後にこの社に奉納しました。
  • 卯花威鎧[国宝] 兜大袖付 1領
  • 木地塗螺鈿飾太刀[国宝] 1口 螺鈿で鳥と草花との模様のついたこしらえの最も優れたもので、藤原時代の作です。
  • 黒塗螺鈿飾太刀[国宝] 2口 外箱に朱漆で寿永2年(1183年)3月20日国司佐伯景弘が調進した書です。景弘は当社の大宮司でした。
  • 鍍金兵庫鎖太刀[国宝] 5口 5口のうち1口だけは、寄進者が不明ですが、その他はこの社に伝わる古文書によって、皆鎌倉歴代の将軍および足利尊氏の寄進になったもので寄進者も製作年代も明らかなものです。
  • 鍍金長覆輪太刀[国宝] 2口 異国降伏祈願のため、将軍惟康親王から文永10年(1273年)12月2日寄進されたものです。
  • 錦包藤巻太刀[国宝] 1口 平家伝来の名刀といわれ今は御物となっている小烏丸と同様変わったこしらえで古制を現す貴重品です。
  • 梨子地赤銅筒金入短刀[国宝] 1口 伝足利尊氏所用といいます。友成作です。
  • 太刀[国宝] 1口 銘友成作
  • 太刀[国宝] 1口 銘包次、拵黒漆半太刀
  • 刀[国宝] 1口 銘談議所西蓮、拵腰刀
  • 太刀[国宝] 1口 銘備州長船住□真、拵革包太刀
  • 太刀[国宝] 1口 銘清綱、拵野太刀、桂元忠寄進
  • 次の宝物は奈良帝室博物館へ出陳
  • 革柄蝋色鞘脇指[国宝] 1口 銘光忠
  • 太刀[国宝] 1口 社伝則長作、表に備州長船住□長作、裏に嘉元四年十二月日の銘があります。
  • 糸巻太刀[国宝] 1口 銘一、福岡一文字
  • 糸巻太刀[国宝] 1口 伝毛利輝元寄進、中身に久国とあります。
  • 革包太刀[国宝] 1口 中身に貞和2年云々の銘があります。
  • 太刀[国宝] 銘一、拵黒漆太刀
  • 次の宝物は京都博物館へ出陳
  • 彩色檜扇[国宝] 1柄 伝平氏奉納
  • 平家納経蔦絵巻唐櫃[国宝] 1合
  • 法華経入蓮華檜経函[国宝] 1箇
  • 紺糸威甲冑[国宝] 1領 伝平重盛奉納
  • 次の宝物は東京帝室博物館へ出陳
  • 舞楽面[国宝] 5面
  • 松喰鶴蒔絵小唐櫃[国宝] 2合 1合は客神宮に1合は中宮に奉納したもので、銘文に「客人宮国司従四位下佐伯朝臣景弘調進寿永二年癸卯三月朔丙辰廿日乙酉神拝次初度受領」とあります。ほかの1合には客人宮の代りに中宮とあります。
※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行
厳島神社 厳島神社平家納経

令和に見に行くなら

名称
厳島神社
かな
いつくしまじんじゃ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
広島県廿日市市宮島町1-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

宮島驛の東南海上約三粁、嚴島町にあり、驛前より連絡船の便がある。當社の祭神は市杵島姬命であるが、神佛混淆の際は、觀世音菩薩として、或はまた辨財天女に附會し、嚴島辨天と稱して崇拜せられた。創建の年代は詳かでないが、弘仁二年名神例幣に預り、延喜の制名神大社に列して居るから早くからこの島に鎭まりましたこと明白で、後安藝國の一宮と稱した。平淸盛安藝守となるに及び頗る當社を信仰し、その一門及公卿の參詣するもの多く、承安四年には後白河法皇及建春門院の御幸あり、また治承四年には高倉上皇前後兩度の御幸があつた。鐮倉時代にも源賴朝これを尊信してより將軍家代々厚く信仰し、藤原賴經、同賴嗣、惟康親王等の奉納ありし兵庫鎖太刀、長覆輪太刀等今に傳はり國寶となつて居る。建武三年足利尊氏東上の途次當社に詣でて參籠せしことを傳へ、同年造營料として當國寶茂郡の地を寄せ、次で貞和四年に廻廊等造營料として佐伯郡己斐村を寄進して居る。永德元年周防の大內義弘造營料として賀茂郡志芳庄の地を寄せ、康應元年には足利義滿が諸將を從へて自ら社參した。戰國の世には大內義隆厚く當社に歸依して屢々社參をなし寄進することも度々であり、天文十六年に大鳥居を再建し奏請して後奈良天皇の敕額を拜受した。毛利氏安藝に起り陶氏をこの島に討ちて家運を開きたるを以て尊信特に厚く、元就父子大に社殿を造營し、多くの社領を寄進した。豐臣秀吉天正十五年薩摩の島津氏を征伐の途中、三月十八日嚴島に來りて社頭に參拜し、修理料として米五千石を寄進し、塔ケ岡に大經堂を建立せしめる爲に一萬石を寄進した。その後文祿元年朝鮮征伐の時にもその途次社參戰勝を祈願し、こゝで軍議を凝したことは著明な事實である。江戶時代に入りては淺野氏の崇敬また厚く、社殿の造營修補等常に藩費を以て支辨したのである。

例祭は六月十七日に擧行され、その他の年中行事には多くの特殊神事があり、そのうちでも神衣獻上式、年越祭、御島巡式、管絃祭、玉取祭、鎭火祭等が最も名高い。

神衣獻上式は一月一日に執行され、新しい神衣を獻じ、舊い神衣を撤する儀式で、その作法嚴肅鄭重を極める。

年越祭は舊正月六日の夜行はれ、俗に「六日年越」と稱し、祭典後本社祓殿に於て神前豫想相場立會式がある。式後古風な大福引があり、大いに賑ひ、午後八時頃に終了する。

御島巡式は七浦神社祭とも稱し、三月と九月の上旬に行はれるが、その外五月十五日には嚴島講社員のために行はれ、また三月より十一月に至る閒には參詣者のもとめに應じ隨時擧行される。この式は社傳によると祭神がこの島に天降り給ひし時、宮居の地を定め給はんとしてこの島を見巡り給ひし故事に起原を有すと云ひ、御鳥食式を執行するのである。その次第は先づ御師伶人の乘り組める御師船及賽客乘用の小早船及饗膳準備の臺所船を艤し、早天御笠濱を發し、島を右に見つつ順次杉之浦、鷹巢浦、腰細浦、靑海苔浦に至り、その浦々に鎭座せる當社の末社を巡拜し、次で養父崎に向ひ、その沖合に差しかゝると嚴上に小祠養父崎神社がある。こゝで神職舷頭に立ちて粢團子を海上に浮べ、伶人樂を奏づれば二疋の神鴉が飛び來りて交々これを喙む。これを御鳥食の式と云ふ。式後また船を進めて山白濱、須屋浦及御床の浦に至り、その地の末社を拜し本島を一週し終る。御島巡り巡路の風景は變化に富み、時々伶人の奏する音樂は古雅であり、また水手の船唄は頗る壯快である。

管絃祭は舊曆六月十七日午後五時より擧行される。その次第は先づ鳳輦に御靈代を移御し、神職伶人等陪乘して大鳥居前に神幸、大鳥居前の儀を行ひ、神饌を獻じ管絃を奏する。その管絃樂は倭琴、箏、琵琶、龍笛、篳、太鼓、鞨鼓及鉦鼓の所謂三管三鼓三絃を用ゐ、古雅にして優美である。これを終りて御座船は地御前、長濱大元及火燒前神社前に神幸し、各所に於てまた管絃を奏して還御になる。その巡幸には漕船御供船の水手等何れも揃の衣裝を着け、共に曳々聲を發し、太鼓を打ち音頭を取つて進み、勇壯を極める。幾千百の參詣者これを拜せんとして大小の船に乘つて從ふの處である。

玉取祭は玉取延年祭とも稱し、舊曆七月十八日の晝閒滿潮時、社前の海上に於て行はれる。海中の櫓に釣るされた寶珠を裸體の群集が爭奪するのであるが、その狀壯觀を極め、寶珠の取得者は神前に至り、祈願を受け神酒を戴き福神像その他の賞と共に右の寶珠を授與される。當日は多數の拜觀者で雜踏する。

舞樂 當社の舞樂は古來有名なもので今尙古式を傳へ、各種の祭典儀式に演奏されて居るが、臨時に規定の初穗料を納めて奉納することが出來る。

社殿[國寶] 嚴島の中央、海岸景勝の地を占め、右には御笠濱があり、左には西松原を控へて居る。背面には彌山を負ひ、正面は海を控へ、その閒に社殿の建築があつて山と海と社殿の三つが實に美しい諧調をなし、滿潮時には海水床下に及び社殿の浮び出た光景は他に見るべからざるものである。かゝる絕妙な社殿の結構が何時考案されたか、それは平家全盛時代の仁安三年に平淸盛の造營になつたのである。その後鐮倉時代に三度火災ありて三度改築されて居るが、その改築は殆ど總て前の規模を踏襲した。かくて現存社殿中最も古いのは鐮倉時代に再建された客神社々殿で、本社をはじめその他の主要建築物は弘治元年毛利氏と陶氏の戰爭によつて社殿が汚れたと云ふので、翌二年に毛利元就が板を悉皆張替へ、更にその後永祿より元龜にかけて元就が大改築したものである。附屬建築物には豐臣秀吉の建てた能樂臺があり、大鳥居は明治八年に再建されたものである。

社殿の配置は頗る變化に富み、複雜を極め、その平面の意匠頗る自由である。中央に本社があり、その右側の前方には客神社がある。また左橫には大國社及天神社が相竝んで居る。その閒を連接するに八曲りせる百八閒の廻廊があり、各閒每に釣燈籠を懸けて居る。本社祓殿の前には平舞臺、高舞臺があり、正面の海上に遠く離れて建つ大鳥居が眺められる。社殿は木部を赤く塗り壁を白くし、屋根は檜皮葺で前方海水に臨み、後は綠滴る山を負ひ、優麗溫雅云ふべからざる色彩美と構造美を發揮して居る。社段の西出口には寶物館があり、稍々離れて大願寺があり、西南の丘上には多寶塔婆がある。また東方入口に近く千疊閣及五層塔婆及末社荒胡子神社がある。左に參拜の順路に從ひ主要なる社殿寶物及その他のものに就いて說明する。

客神社社殿[國寶] 社殿參拜順路の入口を入ると東廻廊の西北端にある。鐮倉時代仁治二年の再建にして當社現存諸建築中最古のものに屬し、天忍穗耳尊を祀る。本殿、幣殿、拜殿、祓殿の四棟より成り、本殿は五閒四面單層切妻造、檜皮葺、拜殿は九閒三面單層切妻造檜皮葺で左右妻部に廂が附いて居る、幣殿は一閒一面本殿と拜殿を連ねて居る。祓殿は三閒四面單層入母屋造の建築で、妻部を正面となし廂の中央を切つて一段高くなし、入口の屋根に高低の變化を與へ諧調の美を發揮し、藤原末期の特徵を傳へて居る。

客神社より廻廊を少し進むと、干潮時には東側に淡水の湧出する鏡ケ池が見られる。更に進むと突當りに朝座舍がある。室町時代の建築で往時は勤番神職の參集した所で今社務所に使用されて居るが、これも國寶になつて居る。こゝから廻廊を西に折れて進むとまた鏡ケ池があり、この池に近い岸上には卒塔婆石や康賴燈籠と稱する古風な石燈籠がある。

揚水橋[國寶] 社務所から本社に至る途中の廻廊から陸地へ架した橋である。橋の片側に天正の銘ある石の水槽があり、これから水を汲んで神殿の用に供したので揚水橋の稱を得たと云ふ。構造は簡單であるが、橋梁建築中古きものゝ一例として注意されて居る。

本社[國寶] 社務所前を過ぎ西に進むと東廻廊は本社の拜殿と祓殿の中閒に至つて盡きて居る。本社の建築は室町時代弘治二年毛利元就の再建にかゝり、その構造配置は大體客神社と同樣で本殿幣殿拜殿祓殿より成つて居る。その他祓殿の正面には平舞臺、高舞臺を附屬して居る。平舞臺は打ち開けて椽庭を成し、中央に一殿高く高舞臺を設け朱欄をめぐらして居る。こゝで舞樂が演奏される。尙平舞臺先端の左右には櫛磐窓神及豐磐窓神を祀れる門客神社があり、またその外方に接して樂屋がある。

本殿[國寶] 八閒四面、單層切妻造、檜皮葺、室町時代の再建であるが、その構造樣式は藤原末期の風格を傳へた優美な建築である。

拜殿[國寶] 九閒三面單層入母屋造、檜皮葺、室町時代の建築である。內部は床總拭板敷にして廣く神樂殿を兼ねて居る。

祓殿[國寶] 三閒六面、屋根は前面入母屋造となり、後面は拜殿の屋根に接續して居る。四方の柱閒は吹き放しとなし、內部の床は總拭板敷になつて居る。

大鳥居[國寶] 本社の正面約一六〇米の海中にある。明治八年の再建で總高さ五丈三尺、笠木の長さ七丈七尺餘を有する雄大な鳥居で、額は有栖川宮熾仁親王の御染筆である。柱に轉びがあり、上端島木を受ける處には臺輪、下部には龜腹があり、控の兒柱があり、笠木島木には反があり、覆屋根のある兩部鳥居である。

大國神社本殿[國寶] 本社祓殿より西廻廊を南に進むと本殿の左側にあり、大國主神を祀れる攝社にして四閒三面、單層屋根切妻造、檜皮葺、本社本殿と同時の建築である。

天神社本殿[國寶] 大國神社の後方にあり、菅原道眞を祀れる攝社で、弘治二年の建築にかゝり、素木造の寢殿造で頗る優雅な形態を備へて居る。

長橋[國寶] 大國神社より境內御垣ケ原に通ずる長さ六十九尺幅十四尺の橋で、弘治年閒毛利元就等によつて營まれた。橋脚には赤閒石を用ゐ我が國橋梁建築中貴重な遺構である。

反橋[國寶] 長橋から大國神社にもどり、西廻廊に出て西に進むとこの反橋の北端に達する。敕使橋とも稱し、往時は上卿參向の時この橋を渡つたと云ふ。長さ六十九尺幅十四尺、弦月狀に反り、兩側に朱塗の高欄を設け、その擬寶珠の一に弘治三年の銘があり、揚水橋などと共に我が橋梁建築中貴重な遺構である。

能樂臺[國寶] 舞臺及附屬の階掛及樂屋より成り、反橋の所から西廻廊を北に進むと樂屋に達する。何れも素木造にして毛利元就の寄進にかゝるものである。舞臺は一閒一面屋根切妻造、檜皮葺、四本柱は方柱にして各柱閒は何れも開放し、後壁の鏡板には型の如く靑綠の松竹を描いて居る。現存せる我が能舞臺中最古の一例として貴重な遺構である。

寶物館 西廻廊を外に出ると左手に建つて居る。次に主要な寶物に就いて說明する。

  • 平家納經及願文[國寶] 三十三卷 紙本著色、この經は法華經二十八卷無量義經、觀普賢經、阿彌陀經及般若心經各一卷と願文一卷とより成り、淸盛が自からこの願文を認めて當社へ奉納したものである。願文の卷頭に「櫛筆、仁安元年十一月十八日內大臣平朝臣淸盛」とあり。本文漢文にて八十行終に「長寬二年九月弟子從二位行權中納言兼皇太后宮權大夫平朝臣淸盛敬白」とある。その願文によると淸盛深く當社を崇敬し、その利益を蒙ること極めて大なるものがあつたので、家門繁昌子孫榮達、今世の願望巳に滿ち來世の妙果宜しく期すべく、よつて報賽の爲め自から發起して、一族三十二人の人々に勸めてこれ等の諸經を書寫せしめ、莊嚴に各自の意匠を凝らし金銅製の經箱に納めて寄進したのである。卽ち願文に「弟子竝家督三品武衞將軍(重盛)及他子息等兼又舍弟將作大匠(賴盛)能州(敎盛)若州(經盛)兩刺史門人家僕都盧卅二人各分一品一卷所令盡善盡美也」とある。それでこの納經は長寬二年に發願せられ仁安三年まで三年閒にて出來たものである。その閒淸盛は權中納言より權大納言となり內大臣となり仁安二年二月には一躍太政大臣となつた。かくてその納經が今尙全部そのまゝ保存されて居り、それに施された裝飾は善美を盡したもので、經卷として紙を土臺に、木と絹裂以外に金屬玉類貝等その時代の裝飾に用ゐられた材料を悉く使用して、種々なる應用藝術の長所を綜合せしめたものが卽ち平家納經である。裝飾は各卷一樣でなく各自に意匠を凝らし華麗を極めたもので、料紙の裝飾として先づ金と銀、次に群靑綠靑が主として用ゐられ、またその色の美を加ふるためにこれ等の材料を種々の形に變化せしめ、色と形と複雜な變化より成る裝飾法を巧妙に使用して居る。また經文の文字にも金銀群靑綠靑等を巧に地紙の色に合せて使用して居る。かくの如く色の美を巧妙に發揮して居るのは現在の遺物中この經卷を措いて他に見ることが出來ない。かくて經文書寫の筆跡もまた麗はしいもので一々その筆者は判然しないが、幸にも淸盛自身の書いたものは皆奧書がある。卽ち法華經の法師品と阿彌陀經と般若心經の三卷であつて、その筆勢の見事なことは一門の中で傑出して居る。畫も應用の妙を盡し、これを表紙と見返とに現はしたのみならず本紙にも畫き込んである。中には經文の內容と關係のあるものもあつて、例へば法華經護持の普賢十羅刹女に因みて十羅刹女を裝飾にして當時の優しい宮廷女房を現はし、また普賢菩薩の東方より影向の姿を畫き、或は藥王菩薩本事品第二十三の表紙には葦手繪に經の文句を現はして居るものもある。卷軸の裝飾に於ても卷止の八相に鍍金の透彫金具が使用され、經卷の外題にも特に金屬若くは瑠璃等の玉類に經題を彫刻し、或は字形を取り付けなどして綺羅びやかに裝飾し、軸も一卷每に意匠を變化し或は寶塔形となし、或は運蕾の形となす等、複雜なる變化を求めんとして居る。かくまでこの小さな卷軸と形式の一定したものに對して裝飾の粹を盡したものは實に空前絕後である。全三十三卷中十卷は京都博物館に出陳されて居る。
  • 平家納經函[國寶] 一個 この函の裝飾も中に納められた經卷の裝飾に相應した立派なものである。函の心は銅で地を黑色となし蓋表及側面に銀製の雲と金製の龍との置金物を取り付けて居る。蓋表の中央には雙龍に雲を配した丸文を置き中央上部に五輪塔を現はして居る。函は三重にして內張に倭錦を以てして居る。龍には鍍金が施されてあるため黑地に金銀の配色美はしく莊嚴な裝飾美を發揮し、實に納經と共に善美を盡したものである。かやうに平家納經は藝術史上繪畫史上宗敎史上貴重な珍寶である。
  • 平家納經蔦繪卷櫃[國寶] 一合 福島正則が當國の太守となつた關係から平家納經の重寶なるを知て慶長七年五月にこの立派な唐櫃を寄進してこれを永久に保存するを圖つたものである。
  • 平家納經[國寶] 八卷 紺紙金銀泥、法華經七卷及觀普賢經より成り、金銅の箱に納められて居る。表紙は紺地金銀泥の寶相花唐草、見返は金銀泥にて山水中に佛菩薩が描かれてある。この方は淸盛と弟賴盛との合力書寫にかゝるもので法華經卷第一の奧書にある如く一卷每に淸盛兄弟の合筆書寫に成りたるもので、これをその人の筆蹟として見れば微古の資料ともなり、また兄弟の人物の大小までが筆端に現はれて興味あるものであり、この寫經、もとは法華八卷あつたのであるがその第四卷を佚して今前田侯爵家に所藏せられて居る。
  • 金剛壽命陀羅尼經[國寶] 一卷 表紙見返共に前の合筆法華經と同一の體裁で本文は紺紙金泥である。奧書にある親宗は淸盛の室時子や建春門院と兄弟である。
  • 釋迦及諸尊箱佛[國寶] 一箇 兩開きの小籠中に釋迦及諸菩薩像を刻み出したもので、中央は釋迦の坐像と六菩薩四羅漢の立像、左右には各釋迦の坐像及二菩藤二羅漢の立像が刻してある。檀木造で多少彩色が加へられて居る。高野山金剛峯寺及普門院の枕本尊によく似たものであるが、當社のは外部の裝飾が完備して金屬彫刻の毘舍門天や唐革の透彫模樣が完全な形式を備へて居り左右兩扉を閉ぢて小さな閂をかける裝置まで一切具足し、寵としての形體が知られ、現存小寵佛像中最も貴重なもので、支那唐代の作である。
  • 金銅佛具[國寶] 五個 金剛盤、五鈷鈴、獨鈷、三鈷及五鈷がある。形狀整齊、鑿工の技術る優れたものである。弘法大師將來と傳へて居るが、藤原時代末期のものと思はれる。
  • 扇[國寶] 一柄 白紙に金銀切箔砂子を散らしたものを地紙となし、黑塗の骨五本を付け、それに三條院花山院等六人の和歌を墨書したものである。社傳に書は久我通親の筆と云ふ。治承四年高倉院の嚴島行幸の時奉納されたものゝ一つであると傳へて居る。
  • 舞樂面[國寶] 九面 當社の彫刻類では舞樂面が最も傑出し、中にも貴德、散手の二面が雙美である。按摩腫面の裏書に依て見ると、承安三年八月日盛國朝臣調進とあるから製作年代も確實に知られる。皆顏面に色漆を塗り、眼、眉、唇、齒などに異つた色漆を塗り、或る面には麻の捻絲を以て頭髮を植ゑて居る。九面中五面は東京帝室博物館に出陳され、當社には納曾利、祓頭、還城樂、陵王の四面が殘つて居る。納曾利面には「嚴島社納蘇利面承安□年□□臺盤所調進」の銘がある。臺盤所は淸盛の室時子である。
  • 飾馬[國寶] 一軀 木造、極整色、玉眼、蹄水牛、黑塗金覆輪の鞍を置いて居る。臺黑地草花蒔繪金物鍍金。社傳によると鐮倉時代に奉納されたものでかくの如く古いものは極めて少ない。
  • 七絃琴[國寶] 平重衡所用と傳へ、黑漆斷文で製作は宋代のものと思はれ、雷氏の製作ならんかと云ふ。
  • 樂器[國寶] 二個 木製、奚婁及兆鼓で何れも胴金地に彩色文がある。
  • 小形調度類[國寶] 七種 半臂は表大和錦、石帶は鳥油革に無文の巡方あり、飾太刀鍍金、平胡錄、蒔繪鳳凰の丸紋、矢鍍金十一本、檜扇表裏共極彩色二把及木製笏等で安德天皇の御物と傳へて居る。これ等は有職故實の有益な參考品であり、また藤原時代の趣味の一端が現はれて誠に床しいところのあるものである。
  • 梅唐草蒔繪文臺硯箱[國寶] 一組 梨子地に梅唐草を金銀で蒔いたもので、社傳に大內義隆の寄進と云ふ。
  • 扁額[國寶] 二面 木製銅字、周緣に彫刻がある。後奈良天皇の宸筆にして、一面には「嚴嶋大明神」、他の一面には「伊都岐島大明神」とある。
  • 御判物帖[國寶] 二帖 本社に關する重要な古文書類七十通を貼り込んだものである。
  • 狛犬[國寶] 十四軀 木造漆塗彩色、高さ七寸乃至二尺、何れも破損はして居るが、その形態は後世のものとは違つて一番の柔か味に富んで居る。嘉禎二年具注曆の裏文書にある、同三年造內宮玉殿莊嚴調度用途注文に獅子狛犬大小二十六頭とあるものの中である。
  • 監革肩赤威甲冑[國寶] 一領 天文十一年五月二十日大內義隆の寄進したもので輪寶唐草の金具が附いて居る。
  • 小櫻威甲冑[國寶] 一領 當社武器類の中で最も優れたもので、他に比類のなき立派なものである。製作は藤原末期卽ち平家時代である。
  • 紺革威甲冑[國寶] 一領 源義光所用、胴丸にして安藝守護武田氏重代の寶物なりしが、銀山落城の後大內氏の有に歸し、後當社に奉納した。
  • 卯花威鎧[國寶] 兜大袖付 一領
  • 木地塗螺鈿飾太刀[國寶] 一口 螺鈿で鳥と草花との模樣のついた拵の最も優れたもので、藤原時代の作である。
  • 黑塗螺鈿飾太刀[國寶] 二口 外箱に朱漆で壽永二年三月二十日國司佐伯景弘が調進した書である。景弘は當社の大宮司であつた。
  • 鍍金兵庫鎖太刀[國寶] 五口 五口のうち一口だけは、寄進者が不明であるが、その他は當社相傳の古文書に依りて、皆鐮倉歷代の將軍及足利尊氏の寄進になつたもので寄進者も製作年代も明なものである。
  • 鍍金長覆輪太刀[國寶] 二口 異國降伏祈願の爲め、將軍惟康親王より文永十年十二月二日寄進されたものである。
  • 錦包藤卷太刀[國寶] 一口 平家傳來の名刀と云はれ今は御物となつてゐる小烏丸と同樣珍奇な拵であつて古制を徵すべき貴重品である。
  • 梨子地赤銅筒金入短刀[國寶] 一口 傳足利尊氏所用と云ふ。友成作である。
  • 太刀[國寶] 一口 銘友成作
  • 太刀[國寶] 一口 銘包次、拵黑漆半太刀
  • 刀[國寶] 一口 銘談議所西蓮、拵腰刀
  • 太刀[國寶] 一口 銘備州長船住□眞、拵革包太刀
  • 太刀[國寶] 一口 銘淸綱、拵野太刀、桂元忠寄進
  • 左記寶物は奈良帝室博物館へ出陳
  • 革柄蝋色鞘脇指[國寶] 一口 銘光忠
  • 太刀[國寶] 一口 社傳則長作、表に備州長船住□長作、裏に嘉元四年十二月日の銘がある。
  • 絲卷太刀[國寶] 一口 銘一、福岡一文字
  • 絲卷太刀[國寶] 一口 傳毛利輝元寄進、中身に久國とある。
  • 革包太刀[國寶] 一口 中身に貞和二年云々の銘がある。
  • 太刀[國寶] 銘一、拵黑漆太刀
  • 左記寶物は京都博物館へ出陳
  • 彩色檜扇[國寶] 一柄 傳平氏奉納
  • 平家納經蔦繪卷唐櫃[國寶] 一合
  • 法華經入蓮華檜經函[國寶] 一箇
  • 紺絲威甲冑[國寶] 一領 傳平重盛奉納
  • 左記寶物は東京帝室博物館へ出陳
  • 舞樂面[國寶] 五面
  • 松喰鶴蒔繪小唐櫃[國寶] 二合 一合は客神宮に一合は中宮に奉納したもので、銘文に「客人宮國司從四位下佐伯朝臣景弘調進壽永二年癸卯三月朔丙辰廿日乙酉神拜次初度受領」とある。他の一合には客人宮の代りに中宮とある。

宮島のみどころ