厳島

嚴島[指定史蹟・名勝]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

広島湾の西北部に位置し大野瀬戸をもって本土と隔たりその最も狭いところは約600m、水深わずかに7mのところがあります。島の形状は長方形となっていて周回約31km、地質は主として斑状黒雲母花崗岩で、島中の最高峰を弥山といい、高さ455m、瀬戸内海風景の眺望がいいところです。島中に瀑布があり、砂丘があり、奇岩があり、さらに森林の風致を備え、秋は紅葉の美観を添えます。木は松、モミ、カヤなどが多く、亜熱帯の植物も多く、樹木は鬱蒼として繁っています。島の北部に厳島町の市街があって、ここに厳島神社が鎮座し、島の周囲の七浦に、同社の末社があって、俗に七胡子と呼ばれ、七浦廻りをするものが少なくありません。海中に建つ厳島神社の大鳥居は島の偉観で、廻廊は海中に築営されてあたかも海上に浮かんでいるようで、日本三景のひとつとして人口に膾炙しています。平家の崇敬によって建てられたその社殿は今なお荘麗を極め、付近一帯また史蹟に富み、室町時代の天文23年(1554年)毛利元就が陶晴賢(全薑)を討ったいわゆる厳島戦の古戦場は最も名高いものです。元就、晴賢の兵を折敷畑に破り、急に厳島の宮尾に衛兵を置きました。宮尾は要害鼻とも称し、連絡汽船桟橋のあたりといい、弘治元年(1555年)9月晴賢来島して塔岡に陣し宮尾城を攻めましたが、元就、包浦に上陸し、塔岡の陣を攻めて晴賢の軍を潰走させ、晴賢はついに西の大江浦に逃げて自刃し、毛利氏ここから中国に覇を唱えるに至りました。史蹟と名勝とを兼ね備えた厳島が今なお観光の人に喜ばれるのはもっともなことです。

※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行

令和に見に行くなら

名称
厳島
かな
いつくしま
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
広島県廿日市市宮島町
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

廣島灣の西北部に位し大野瀨戶を以て本土と隔りその最も狹き所は約六〇〇米、水深僅に七米の所がある。島の形狀長方形をなし周回約三一粁、地質は主として斑狀黑雲母花崗岩で、島中の最高峰を彌山と云ひ、高さ四五五米、瀨戶內海風景の眺望がよい。島中に瀑布あり、砂丘あり、奇岩あり、更に森林の風致を備へ、秋は紅葉の美觀を添へる。木は松、樅、榧等多く、亞熱帶の植物も多く、樹木蓊鬱として繁つて居る。島の北部に嚴島町の市街があつて、こゝに嚴島神社が鎭座し、島の周圍の七浦に、同社の末社があつて、俗に七胡子と呼ばれ、七浦廻りをするものが少くない。海中に建てる嚴島神社の大鳥居は島の一偉觀で、廻廊は海中に築營せられて恰も海上に浮ぶが如く、日本三景の一として人口に膾炙して居る。平家の崇敬により建てられたその社殿は今なほ莊麗を極め、附近一帶また史蹟に富み、天文二十三年毛利元就が陶晴賢(全薑)を討つた所謂嚴島戰の古戰場は最も名高い。元就、晴賢の兵を折敷畑に破り、急に嚴島の宮尾に城き衞兵を置いた。宮尾は要害鼻とも稱し、連絡汽船棧橋の邊と云ひ、弘治元年九月晴賢來島して塔岡に陣し宮尾城を攻めたが、元就、包浦に上陸し、塔岡の陣を攻めて晴賢の軍を潰走せしめ、晴賢遂に西方大江浦に走りて自殺し、毛利氏これより中國に霸たるに至つた。史蹟と名勝とを兼ね備へた嚴島が今尙觀光の人に喜ばるゝは尤のことである。

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