熱海温泉

熱海溫泉
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

熱海駅にあり、町内自動車の便があります。土地は伊豆半島の東北隅にあり、相模灘に面する緩かな傾斜地で三方を山が囲み、海上12kmの彼方にはツバキ咲く初島が絵のように浮んでいます。寒い季節でも4度を下らず、真夏でも30度を超えず、温泉と海水浴を兼ねられる避暑避寒の楽園です。療養地としての価値においてはかつてベルツ博士が次のように言っています。「熱海がほかの温泉に対し優れているのは、その自然に山岳が屏風のように囲む地形であるため、冬期の気候が療養地として好適であることです。この地を推奨すべき点を挙げれば、第一に静かな土地であること、第二に夏は清涼爽快で冬は終日日が当たるということ、第三は海岸に沿って伊豆山に至る道が遊歩に適しているということです」。

温泉の由来は極めて古く、仁賢天皇の時代に蚊島穂台君の屍を伊豆国熱海の海底に沈めたところ、海中から熱湯が湧出して魚介が焼け死んでしまったことから発見されたと伝わります。奈良時代の天平勝宝年中(749~757年)に箱根金剛王院の万巻上人が、霊湯が海中に流れてしまうことを惜しみ、また魚類が熱湯のために死んでしまうことを哀れんで、その泉脈を山腹に移し、そのそばに少彦名神を祀り、薬師仏を本地として湯前権現と称しました。これが現在の大湯の起こりだと伝わっています。数十年前までは波静かな日には海面が泡立つのがたびたび見られたといいます。熱海の名はこれに由来するもので、箱根火山の噴出以前に、熱海付近を中心とした火山の噴火があり、今の熱海の海面は当時の噴火口のひとつだったとする説もあります。

温泉は大湯をはじめ清左衛門湯、小沢の湯、風呂の湯、河原の湯、佐次郎の湯、野中の湯を古来熱海七湯といっていましたが、現在は50以上の湯を数えるに至りました。大湯の間欠泉は勢いを失いましたが、各温泉ともいずれも高温で90~100度におよぶため水蒸気が大量に立ち上り、ところどころの煙突から噴く白煙ももうもうと空に充満している様子は、噴火の勢いが今なお盛んなことを示すもので、熱海温泉の偉観とすべきものです。

江戸時代には徳川家康、家光が入浴に訪れ、以来毎年数回江戸城へ献湯されました。「熱海よいとこ日の丸立てて御本丸へとお湯がゆく」とは当時の流行り歌です。明治以来ここに御用邸が設けられ、別荘地や保養地としてますます発展する勢いがあります。

温泉は無塩の湯も一部ありますが多くは塩類泉でラドンを多量に含有し、リウマチ、胃腸病、婦人病、神経諸病などに効くといいます。

熱海付近の名所の主なものは大湯の鉄棚内にある英国公使サー・ラザフォード・オールコック題名の石碑、念仏山の岬角、魚見崎の展望、胎内潜、狗潜、観音窟などの洞窟のある錦浦、海の釣堀のある赤根公園、理想的遊園である水口園、季節に香る梅園、老クスノキが茂る来宮神社、開祖授翁宗弼和尚すなわち藤原藤房手植えと伝わる松がある温泉寺、桜が多い上野山、金色夜叉記念碑のある横磯、海上の別天地初島などがあり、日金山、十国峠へもこの熱海から登るのが楽です。峠は熱海から6km、三島行きの自動車で峠まで行き、それから右へ2kmあまりで頂上に達します。海抜714m、視界開け一望でき、相模、武蔵、安房、上総、下総、駿河、遠江、信濃、甲斐、伊豆の十国、大島、利島、新島、式根島、神津島の五島が眺められます。

旅館は50数軒。駅付近は別の区画となり、熱海ホテル、万平ホテル、一ノ湯支店があります。熱海町の主な旅館は古屋、露木、樋口、富士屋、鈴木屋、玉の井、新かど、青木館、大黒屋、新玉屋、玉屋、水口園、玉久、熱海花壇、真誠館、福島屋、小松、藤井、大月館、稲元別館、大潮館、万屋別館、熱海園、ますや、常盤館などです。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行
熱海温泉

令和に見に行くなら

名称
熱海温泉
かな
あたみおんせん
種別
温泉
状態
現存し見学できる
住所
静岡県熱海市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

熱海驛所在地、町內自動車の便がある。地は伊豆半島の東北隅にあり、相模灘に面する緩かな傾斜地で三面翠山を繞らし、海上三里の彼方には椿花咲く初島が繪の樣に浮んで居る。極寒四十度を下らず、盛暑八十七度を超えず、溫泉浴と海水浴を兼れらるゝ避暑避寒の樂園である。療養地としての價値に就ては嘗てベルツ博士が左記の如く云つて居る。「熱海が他の溫泉に對し卓絕せることは、その自然に山嶽屏圍せる地形なるが故に、冬期にあたりこれを氣候療養所とするに便利なるが故なり。この地を選獎すべき所以のものは、第一幽靜の地なり。第二夏時淸涼爽快にして冬期終日、日光不絕の處、第三最佳の遊步場は海岸に沿ひ伊豆山に至るの地なり」。

溫泉の由來は極めて古く仁賢天皇の御代に蚊島穗允君の屍を伊豆國熱海の海底に沈め給ふ。この時初めてこの海中に熱湯湧出して魚介の爛死するを發見したと傳へ、天平勝寶年中に箱根金剛王院の萬卷上人が靈湯の海中に流散するを惜み、且つ魚類のこれが爲に爛死するをあはれみ、その泉脈を尋ねてこれを山腹に轉湧せしめ、その傍に少彥名神を祀り、藥師佛を本地として湯前權現と稱した、これが今の大湯の起りだと傳へて居る。古老の談によると數十年前までは海上靜穩の日には度々海面に泡立つを認めたと云ふ。熱海の名は蓋しこれに因んだもので、箱根火山噴出以前に、熱海附近を中心とした火山の噴起あり、今の熱海の海面は當時の噴火口の一つであつたらうと云ふ說もある。

溫泉は大湯を初め淸左衞門湯、小澤の湯、風呂の湯、河原の湯、佐次郞の湯、野中の湯を古來熱海七湯と云つて居たが、今は五十餘湯を數ふるに至つた。大湯の閒缺泉は今その實を失つたが、各溫泉とも何れも高溫で二百度乃至二百二十六度に及ぶので水蒸氣の昇騰が著しく、所々の煙突から噴く白煙濛々として空中に漲つて居る有樣は、噴火の餘勢が今尙盛んな事を示すもので、熱海溫泉の偉觀とすべきものである。

江戶時代には德川家康、同家光の入浴あり、爾後每年數回時を期して江戶城へ獻湯せしめた。「熱海よいとこ日の丸立てゝ御本丸へとお湯がゆく」とは當時の俚歌である。明治以來此處に御用邸が設けられ、別莊地として保養地として益々發展すべき情勢である。

溫泉は無鹽の湯を除く外凡て鹽類泉でラヂウムエマナチオンを多量に含有し、リウマチス、胃腸病、婦人病、神經諸病などに效くと云ふ。

熱海附近の名所の主なるものは大湯の鐵棚內にある英國公使サー、ラザーフォールド、アルコツク題名の石碑、念佛山の岬角、魚見崎の展望、胎內潛、狗潛、觀音窟などの洞窟のある錦浦、海の釣堀のある赤根公園、理想的遊園の實を備ふろ水口園、年內に淸香を吐く梅園、老樟茂れる來宮神社、開祖授翁宗弼和尙卽ち藤原藤房手植の松と云ふのがある溫泉寺、櫻樹多き上野山、金色夜叉記念碑のある橫磯、海上の別天地初島などあり、日金山、十國峠へもこの熱海から登るが樂である。峠は熱海から六粁、三島行の自動車で峠まで行き、それから右へ二粁あまりで頂上に達する。海拔七一四米、一望開豁、相模、武藏、安房、上總、下總、駿河、遠江、信濃、甲斐、伊豆の十國、大島、利島、新島、式根島、神津島の五島が眺められる。

旅館は五十數軒。驛附近は別に一區をなし、熱海ホテル、萬平ホテル、一ノ湯支店あり。熱海町の主なる旅館は古屋、露木、樋口、富士屋、鈴木屋、玉の井、新かど、靑木館、大黑屋、新玉屋、玉屋、水口園、玉久、熱海花壇、眞誠館、福島屋、小松、藤井、大月館稻元別館、大潮館、萬屋別館、熱海園、ますや、常盤館などである。

熱海・伊豆諸島のみどころ