可愛岳古戦場

可愛嶽古戰場
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

日向長井駅の西南2km、延岡駅の北約8km、ともに自動車の便があります。国道から可愛山陵に至る道のそばに内藤政学の書になる「明治十年激戦地」の碑が建っています。ここからさらに西にそびえる可愛岳(海抜728m)の山頂にかけた一帯は西南戦争の際の古戦場です。明治10年(1877年)8月、西郷隆盛が肥後に敗れて延岡に入り、次いで長井に至りましたが、官軍の追撃が急で、同月17日夜半隆盛は諸隊を率いて出発し、可愛岳の峭壁を撃ち激戦数合、ついに官軍の包囲を破って三田井に走り、椎葉山中を経て鹿児島に逃れました。隆盛が15日から17日夜半まで宿泊した児玉熊四郎の故宅は、記念碑のそばに旧態のまま残り、茅葺平屋建の農家で、砲弾破片、愛用の硯、枕等を所蔵しています。なお、ここから200mを隔てたところにある桐野利秋の宿泊したという家には、利秋の佩刀があります。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
可愛岳古戦場
かな
えのだけこせんじょう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
宮崎県延岡市北川町長井
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

日向長井驛の西南二粁、延岡驛の北約八粁、共に自動車の便がある。國道から可愛山陵に到る道傍に內藤政學の書にかゝる「明治十年激戰地」の碑が建つて居る。これより更に西に聳える可愛嶽(海拔七二八米)の山頂に掛けた一帶は西南役の際の古戰場である。明治十年八月、西鄕隆盛肥後に敗れて延岡に入り、次いで長井に到つたが、官軍の追擊急で、同月十七日夜半隆盛諸隊を率ゐて出發し、可愛嶽の峭壁を攀ぢ激戰數合、遂に官軍の重圍を破りて三田井に奔り、椎葉山中を經て鹿兒島に遁れた。隆盛が十五日より十七日夜半まで宿泊した兒玉熊四郞の故宅は、記念碑の傍に舊態を存し、茅葺平屋建の農家で、砲彈破片、愛用の硯、枕等を藏して居る。尙、こゝから二〇〇米を隔てた所にある桐野利秋の泊したと云ふ家には、利秋の佩刀がある。

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