延岡市

延岡市
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

南延岡、延岡両駅所在地。舟揖の便ある五箇瀬川の下流地方に開けている平地に位置し、東西12kmに近く、南北はほぼこれに等しく、面積約44km²、日向灘における海岸線約6.6kmです。この地はもと土持氏の領有で鎌倉時代の永仁5年(1297年)土持国綱が、恒富の地に井上城を築き、室町時代の永享元年(1429年)土持全宣が南の地に西階城を、次いで文安元年(1444年)土持宣綱が南の松山に松尾城を築きましたが、安土桃山時代の天正6年(1578年)土持氏が大友宗麟によって滅ぼされ、その後高橋元種が豊前から来て現在の延岡城跡の地に築き、有馬、三浦、牧野、内藤の諸城主の城下町として発達しました。日豊本線の開通以後、日本窒素肥料、旭ベンベルグ絹糸の工場が設置されてから戸口が次第に増加し、昭和5年(1930年)岡富、恒富の2村を編入し、昭和8年(1933年)の紀元節をもって市に列しました。昭和7年(1932年)の生産総額約740万円、その8割以上は化学工業品が占めています。人口は4万人。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
延岡市
かな
のべおか
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
宮崎県延岡市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

南延岡、延岡兩驛所在地。舟揖の便ある五箇瀨川の下流地方に開けて居る平地に位し、東西一二粁に近く、南北略々これに等しく、面積約四四方粁、日向灘に於ける海岸線約六粁六である。この地はもと土持氏の領有で永仁五年土持國綱、恆富の地に井上城を築き、永享元年土持全宣南方の地に西階城を、次いで文安元年土持宣綱南方松山に松尾城を築いたが、天正六年土持氏大友宗麟のために滅され、その後高橋元種豐前から來りて今の延岡城址の地に築き、有馬、三浦、牧野、內藤の諸城主の城下町として發達した。日豐本線の開通以後、日本窒素肥料會社、旭ベンベルグ絹絲會社の工場設置されてから戶口頓に增加し、昭和五年岡富、恆富の二村を編入し、昭和八年の紀元節を以て市に列した。昭和七年の生產總額約七百四十萬圓、その八割以上は化學工業品が占める。人口四萬。

延岡のみどころ