名護屋城跡並びに陣跡
昭和初期のガイド文
[指定史跡] 唐津駅から北西約16km、東松浦郡名護屋村の中央に位置する勝雄ヶ岳の頂上にあります。呼子からは発動機船、唐津からはバスで訪れることができます。この城は、天正19年(安土桃山時代、1591年)に豊臣秀吉が九州の諸大名に命じて築かせたもので、加藤清正が設計したと伝えられています。文禄・慶長の役では、日本軍の本拠地となりました。現在では荒廃していますが、本丸、二の丸、三の丸をはじめとする各曲輪の堀、石垣、階段道などが良好な状態で残っています。唐津街道から城内に入ると、右側に「鯱池」と呼ばれる堀池があります。山里丸跡に進むと郭内には広澤寺があり、この寺は名護屋越前守藤原経述の妹であり、秀吉の側室であった広澤局の旧居跡に建てられたものです。境内には広澤局の墓と大蘇鉄があります。北門跡を通り、階段道を抜けて三の丸跡に入ると、大手門跡を見ることができ、そこから本丸跡に進むと西北隅に天守台跡があります。この天守台跡には高台があり、礎石や土塁が現存しています。本丸跡の中央に広がる芝生の中には、「名護屋城址」の記念碑が建てられています。さらに東に進むと二の丸跡に至り、西北隅に船手門跡が見えます。その後、西二の丸跡に入り、浅野弾正曲輪跡を見下ろしながら搦手門跡を通り、再び北門跡に戻ることができます。また、山里丸跡の西北にある台所屋敷跡に建つ松尾家では、秀吉の直筆や遺品が保存されています。城の周囲には、小丘陵が波のように起伏しており、百数十の陣営跡が点在しています。徳川家康の竹の丸陣跡や、前田利家、小西行長、木下秀長、加藤清正、福島正則、九鬼嘉隆、上杉景勝、島津義弘らの陣跡には、石垣や礎石、旗竿石などが残っています。これらの陣跡は、名護屋城址とともに史跡に指定されています。また、これらの陣跡の間に広がる低地や渓谷は、当時、遠近から商人が集まり物資を売買した場所であったと伝えられています。現在でも、田畑の間に当時の町名が残されており、壮大だった当時の規模をうかがい知ることができます。
令和に見に行くなら
- 名称
- 名護屋城跡並びに陣跡
- かな
- なごやじょうあとならびにじんあと
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
[指定史蹟] 驛の西北約一六粁、東松浦郡名護屋村中央勝雄ヶ岳の頂上にあり、呼子から發動汽船、唐津から自動車の便がある。天正十九年豐臣秀吉が、九州の諸侯に命じて築かしめた處で、加藤清正の設計に成ると云ひ、文祿、慶長兩度の役に我が出征軍の本據地であつた。後荒廢したが本丸、二の丸、三の丸以下諸曲輪の濠渠、石壘、磴道等がよく遺存して居る。唐津街道より城郭內に入れば右方に鯱池と名付けられた濠池あり、山里丸址に入れば、郭內に廣澤寺あり、寺は名護屋越前守藤原經述の妹で秀吉の妾たりし廣澤局の居宅址で、境內に局の墓及大蘇鐵がある。北の門址を通り磴道を過ぎて三の丸址に入り、大手門址を見て引返し本丸址に出づれば、西北隅に天守臺址あり、一段高い上に礎石あり土壘が殘存する。中央の芝生になつて居る所に「名護屋城址」記念碑が建つて居る。これより東二の丸址に出で、船手門址をその西北隅に見て西二の丸址に入り、淺野彈正曲輪址を眼下に見、搦手門址を見て、再び北の門址に出る事が出來る。山里丸址の西北、臺所屋敷址に在る松尾家には、秀吉の遺墨及遺品類が保存されて居る。城郭の四邊には小丘陵が波濤狀に起伏する岡上に百數十の陣營址あり、德川家康の竹の丸陣址以下前田利家、小西行長、木下秀長、加藤清正、福島正則、九鬼嘉隆、上杉景勝、島津義弘等の陣址には石壘、礎石、旗竿石等を遺存せるあり、城址と共に史蹟に指定されて居る。またこれ等の陣址の間を縫うて存する幾多の低地溪間は、皆これ遠近から集まつた賈人が物資を販り店舗を列ねた所と云ひ、畦畔、田圃の間に一々舊時の町名を存し、雄大であつた當時の規模を窺ふに足るものがある。

