観福寺の釈迦、薬師、十一面観音および地蔵像

觀福寺釋迦、藥師、十一面觀音及地藏像[國寶]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

佐原駅の南約2km、観福寺にあり、自動車の便があります。もと香取神宮に奉納されたものですが、明治の初年(1868年)神仏分離の際この寺の所有となったものです。いずれも青銅製、鎌倉時代末期の作で、高さ約33cm、同一形式の坐像です。薬師像を除き、ほかの三像は円板状の銅製光背をもち、その裏面に造立銘が陰刻されています。釈迦および観音像にある銘記は同文で、ただその仏名が違っているのみです。

釈迦および観音像の銘文によると両像は鎌倉時代の弘安5年(1282年)に香取神宮の本地仏として仏師蓮願によって造立された4体中の2体であることが知られます。そして両光背ともに願主の名が欠損していますが、釈迦の光背には「敬白」の上に「朝臣実政」の4字が判読できることから、地蔵の銘記に「亡父実政」とあるのと同一人物であると思われます。彼は下総介となり元寇の時出征して武名を鎮西に馳せていることから、異国降伏心願成就のためにこれらの像を奉納したものであることがわかります。薬師像は光背を欠いていますが、その作風が前2者と全く同一であることから、おそらく同じ銘文を刻した光背をもっていたと思われます。地蔵菩薩の光背に刻された願文には「為亡父実政」の句があります。ほかの像には願主の名がありませんが、地蔵菩薩像の銘文によって推察すると、約20年後の延慶2年(1309年)に実政等の追福のために造立したものです。これらの諸像はいずれもその製作は簡素ですが衣文に写実的な趣が残り、関東における鎌倉末期の代表的彫像として注目されます。特にその銘文があることで非常に貴重な遺物です。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
観福寺の釈迦、薬師、十一面観音および地蔵像
かな
かんぷくじのしゃか、やくし、じゅういちめんかんのんおよびじぞうぞう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
千葉県香取市牧野1752
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の南約二粁觀福寺にあり、自動車の便がある。もと香取神宮に奉納されたものであるが、明治の初年神佛分離の際當寺の有に歸したのである。何れも靑銅製、鐮倉時代末期の作で、高さ約三三糎(一尺一寸)、同一形式の坐像である。藥師像を除き、他の三像は圓板狀の銅製光背を有し、その裏面に造立銘が陰刻されて居る。釋迦及觀音像にある銘記は同文で、唯その佛名を異にするのみである。

釋迦及觀音像の銘文によると兩像は弘安五年に香取神宮の本地佛として佛師蓮願によつて造立せられた四體中の二體であることが知られる。而して兩光背共に願主の名が缺損して居るが、釋迦の光背には「敬白」の上に「朝臣實政」の四字が判讀し得らるゝから、地藏の銘記に「亡父實政」とあるのと同一人であると思はれる。彼は下總介となり元寇の時出征して武名を鎭西に馳せて居るから、異國降伏心願成就のためにこれらの像を奉納したものであることが判る。藥師像は光背を缺くも、その作風が前二者と全く同一であるから、恐らく同じ銘文を刻した光背を有して居たのであらう。地藏菩薩の光背に刻された願文には「爲亡父實政」の句がある。他の像には願主の名が缺失して居るが、地藏菩薩像の銘文によつて推察すると、約二十年後の延慶二年に實政等の追福のために造立したものである。これらの諸像は何れもその製作簡素であるが衣文に寫實的な趣を存し、關東に於ける鐮倉末期の代表的彫像として注目せられる。特にその銘文あるを以て頗る貴重なる遺物である。

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