藤原俊成の墓および明兆の墓
藤原俊成墓及明兆墓
昭和初期のガイド文
東福寺の南にある塔頭南明院の墓地内、南明院開山業仲禅尼墓の左右にあります。その向かって左側にある五輪塔が俊成の墓です。明兆の墓は右側にあり、開山の墓と同じく扁平な自然石が置いてあります。俊成は鎌倉時代の歌人で、後白河天皇の詔によって千載和歌集を編集し、文治2年(1186年)にできあがりました。後鳥羽、土御門両天皇に仕え元久元年(1204年)91歳で亡くなりました。明兆は東福寺の僧で世に兆殿司といい、宋の李竜眠を学び、自から一派をなした室町時代の著名な画僧です。永享3年(1431年)80歳をもって没しました。
※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 藤原俊成の墓および明兆の墓
- かな
- ふじわらのとしなりのはかおよびみんちょうのはか
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 京都府京都市伏見区深草願成町36-1
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
東福寺の南方に在る塔頭南明院の墓地內南明院開山業仲禪尼墓の左右にある。その向つて左側にある五輪塔が俊成の墓である。明兆の墓は右側にあり、開山の墓と同じく扁平なる自然石が置いてある。俊成は鐮倉時代の歌人で、後白河天皇の詔によりて千載和歌集を撰み、文治二年成りて上つた。後鳥羽、土御門兩天皇に仕へ元久元年歲九十一で薨じた。明兆は東福寺の僧で世に兆殿司と云ひ、宋の李龍眠を學び、自から一派をなした室町時代の著名な畫僧である。永享三年藏八十を以て寂した。