隼人塚

隼人塚[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

隼人駅の西南約300m、鉄道線路の東側の田圃のなかにあり、車窓から望見されます。現状はほぼ方形を呈する封土上に3基の石造多重塔および四天王石像が置かれています。多重塔は中央のものが最も大きく2層となっていますが、現存部の高さ約3.8mで破損しています。1基は台石のみを残し、1基は2層で高さ約3mあり、また四天王像は2体は封土上に建ち、2体は封土の裾にあります。飛鳥時代の和銅元年(708年)7月熊襲の死霊を慰めるためにここに五重塔3基および四天王石像を建設して供養を行い、さらに元正天皇の時代、奈良時代の養老4年(720年)隼人の叛乱があり、朝廷がこれを平定した後、また隼人の死霊をここに併せ祀り、放生会を行ったといいます。もと菩提寺の塚と称し、鹿児島神宮の神官がこれを熊襲塚と命名しましたが、いつしか現在の呼び名となったといいます。ほかの地方で類例のあまりない一種の供養塚です。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
隼人塚
かな
はやとづか
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
鹿児島県霧島市隼人町内山田287-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

隼人驛の西南約三〇〇米、鐵道線路の東側の田圃中に存し、車窓から望見せられる。現狀は略々方形を呈する封土上に三基の石造多重塔及四天王石像が置かれて居る。多重塔は中央のもの最も大で二層を存するが、現存部高さ約十尺で破損して居る。一基は臺石のみを存し、一基は二層で高さ約八尺を有し、また四天王像は二軀は封土上に建ち、二軀は封土の裾に存する。和銅元年七月熊襲の死靈を慰めんがためにこゝに五重塔三基及四天王石像を建設して供養を行ひ、更に元正天皇養老四年隼人の叛亂あり、朝廷これを平定するや、また隼人の死靈をこゝに倂せ祀り、放生會を行つたと云ひ、もと菩提寺の塚と稱し、鹿兒島神宮の神官これを熊襲塚と命名したが、何時しか現稱となつたと云ふ。他地方で類例の乏しい一種の供養塚である。

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