筥崎宮

筥崎宮[官幣大社]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

箱崎駅の北100m、箱崎町にあります。

祭神は応神天皇で、社地は千代の松原に連なり、北は大海に臨み、西は国外に向き合い、異国の来寇を防ごうとした神の現れといいます。香椎宮とともに国防の守護神として王朝以来皇室の崇敬が特に厚く、延喜の制名神大社に列せられました。鎌倉時代には、源頼朝が社領を寄進しました。鎌倉時代の文永年間(1264~1275年)蒙古襲来の時に社殿を焼失し、その後もしばしば炎上しました。現存の社殿は室町時代の天文15年(1546年)大内義隆によって再建されたものです。

例祭は8月15日。

楼門[国宝] 安土桃山時代の文禄3年(1594年)小早川隆景が造営したもので、拝殿の正面に接近して建っています。三間一戸、屋根入母屋造、檜皮葺の楼門です。上層は小天井をもち、桝組は和様三手先を用い、尾棰を加え、中備に斗束を配し、各部の手法に桃山時代の特色を示しています。正面に有名な「敵国降伏」の扁額がかかっています。

桜門の左右から本殿の後方をめぐっている廻廊は、大正年間の建築です。

拝殿[国宝] 本殿と丁字形に交わり、楼門に接して建っています。天文15年大内義隆の再建になります。素木造、桁行四間、梁間一間、単層、屋根切妻造、檜皮葺、四面に面取の方柱を立て、上長押下の柱間をすべて開け放し、内部は床土敷となっていて、梁上に板蟇股を置き構造は非常に簡素です。

本殿[国宝] 拝殿とともに天文15年大内義隆の造営となり、九間社朱塗の流造で、正面に五間の向拝があります。左右両側に縋造車寄があり四方廻椽で椽端に細い柱を立て、黒色の蔀戸がある珍しい構造で、その上部全体に欄間を設け、牡丹に唐獅子の彩色を施した透彫が嵌めてあります。内部は外陣のみ丹塗で、内陣は素木造です。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行
筥崎宮

令和に見に行くなら

名称
筥崎宮
かな
はこざきぐう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
福岡県福岡市東区箱崎1-22-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

箱崎驛の北一〇〇米、箱崎町にある。

當社の祭神は應神天皇にして、社地は千代の松原に連り、北は大海に臨み、西は絕域に向ひ、異國の來寇を防がんとての垂跡と傳ふ。香椎宮と共に國防の守護神として王朝以來皇室の崇敬特に厚く、延喜の制名神大社に列せられた。鐮倉時代には、源賴朝が社領を寄進した。文永年閒蒙古襲來の時に社殿を燒失し、その後も屢々炎上した。現存の社殿は天文十五年大內義隆によつて再建されたものである。

例祭は八月十五日。

樓門[國寶] 文祿三年小早川隆景の造營にかゝり、拜殿の正面に接近して建つて居る。三閒一戶、屋根入母屋造、檜皮葺の樓門である。上層は小天井を有し、桝組は和樣三手先を用ゐ、尾棰を加へ、中備に斗束を配し、各部の手法に桃山時代の特色を示して居る。正面に有名な「敵國降伏」の扁額がかゝつて居る。

櫻門の左右から本殿の後方をめぐつて居る廻廊は、大正年閒の建築である。

拜殿[國寶] 本殿と丁字形に交り、樓門に接して建つて居る。天文十五年大內義隆の再建にかゝる。素木造、桁行四閒、梁閒一閒、單層、屋根切妻造、檜皮葺、四面に面取の方柱を立て、上長押下の柱閒を悉く開け放し、內部は床土敷となし、梁上に板蟇股を置き構造頗る簡素である。

本殿[國寶] 拜殿と共に天文十五年大內義隆の造營にかゝり、九閒社朱塗の流造で、正面に五閒の向拜がある。左右兩側に縋造車寄があり四方廻椽で椽端に細い柱を立て、黑色の蔀戶がある珍らしい構造で、その上部全體に欄閒を設け、牡丹に唐獅子の彩色を施した透彫が嵌めてある。內部は外陣のみ丹塗で、內陣は素木造である。

香椎・箱崎のみどころ