宗像大社

宗像神社[官常大社]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

赤間駅の西北約6km、宗像郡田島村字田島にあり、自動車の便があります。

辺津宮、中津宮および奥津宮の三宮に分かれ、辺津宮は田島にあって多岐都姫命を祀り、中津宮は遠く海上大島にあって、市杵島姫命を祀り、奥津宮はさらに遠く玄界灘の孤島沖ノ島にあり、多紀理姫命を祀ります。創建は遠く神代にあってその名は早く古事記、日本書紀に現れ、歴代皇室の崇敬が厚く、延喜の制名神大社に列し、国家有事の際はこの社へも必ず泰幣され、古来最も著名な神社のひとつに数えられています。

社殿はしばしば災火のため焼失しましたが、安土桃山時代の天正6年(1578年)大宮司氏貞がこれを再建し後に小早川隆景の修造によって旧観に復しました。現存の本殿および拝殿は当時再建されたものです。

例祭は11月15日。

辺津宮拝殿[国宝] 天正18年(1590年)小早川隆景が再建したもので、本殿の前面と丁字形をなしています。桁行六間、梁間一間、屋根切妻造杮葺、妻部を正面に北向きに建っています。前後の両面は柱間を開放し、左右両側面は中間を開け放ち、長押上および腰貫下は板張になっていて、内部は床が板張となっています。梁上には雄大な板蟇股を置き地棟を支えています。その構造手法は雄大で、桃山初期の特徴を備えています。

辺津宮本殿[国宝] 天正6年(1578年)大友氏の再建、五間社流造、屋根杮葺、正面に三間の向拝があり、北面しています。向拝の柱は角柱なるも本殿には円柱を用い、妻部は虹梁上に叉首束を立てています。桝組は三斗および舟肘木を使用し、彫刻を有する蟇股があります。内部は前面一間通りを外陣とし、ここに神座があります。床はすべて拭板敷になっています。社殿の構造は簡素にして、手法雄大、桃山初期の手法を示しています。

  • 寳物
  • 狛犬[国宝] 一対 石造、高さいずれも60cm。刀法の極めて鮮やかな、形態のかなり変わった作です。口を開いた方(阿)は子獅子を愛撫し、口を閉じた方(吽)は毬を抱えた玉取獅子で方形台座の四方に唐草文様が現されています。両者の背には「奉施人宗像宮第三御前宝前建仁元年辛酉藤原友房」の銘文が風鐸型の区画に刻書されています。この銘文によってこの狛犬は鎌倉時代の建久7年(1196年)に造られた東大寺の狛犬に次いで日本に現存する宋風石造狛犬の最古のものであることが明らかとなっています。
  • 狛犬[国宝] 一対 木造、高さ約95cm、全身の彩色は剝落していますが口内の朱色歯牙の金色等が残っています。両者とも前脚を力強く突き出して、阿像の方は口を開き、吽像の方は頭上に一角を有し、ロを堅く閉じています。形は前者よりも奇抜で巻毛、五指等に一種の形式があり、全体に素朴にして刀法は簡潔で力強いものです。鎌倉時代の作と思われます。
  • 経石[国宝] 石造、境内の小堂内に納められています。上に屋根形の石を乗せ碑身は中央に阿弥陀仏の坐像を半肉彫で現し、その上に弥陀の六字名号を横書きに陰刻し、さらにその上に弥陀四十八願中の第18、19、23の三願文を陰刻し、裏面には阿弥陀経全部と往生浄土の呪文とが四段に陰刻されています。この経石は平重盛が育王山に沙金を寄進した答礼として、建久9年(1198年)に中国から贈られたものであると伝えていますが、とにかく鎌倉時代に宋から来たもので阿弥陀仏の彫法に立体感があり、螺髪の大きな渦巻や顔の表現に日本の彫像とは異なった特色の顕著なもので、経石として他に類例のないものです。なお碑身の両側には種々の銘文が刻書され、そのなかには大宋紹熙六年己卯孟陽日とか、檀那宗像大宮司等の文があり、また承久2年、嘉禎3年等の鎌倉時代の年号のある追銘が見られます。
※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行
宗像大社

令和に見に行くなら

名称
宗像大社
かな
むなかたたいしゃ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
福岡県宗像市田島2331
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

赤閒驛の西北約六粁宗像郡田島村字田島にあり、自動車の便がある。

當社は邊津宮、中津宮及奧津宮の三宮に別かれ、邊津宮は田島にありて多岐都姬命を祀り、中津宮は遠く海上大島にありて、市杵島姬命を祀り、奧津宮は更に遠く玄界灘の孤島沖島にあり、多紀理姬命を祀る。當社の創建は遠く神代にありてその名は早く古事記、日本書紀に現はれ、歷代皇室の崇敬厚く、延喜の制名神大社に列し、國家有事の際は當社へも必ず泰幣され、古來最も著名な神社の一に數へられて居る。

社殿は屢々災火のため燒失したが、天正六年大宮司氏貞これを再建し後ち小早川隆景の修造によつて舊觀に復した。現存の本殿及拜殿は卽ち當時再建されたものである。

例祭は十一月十五日。

邊津宮拜殿[國寶] 天正十八年小早川隆景の再建する所にして、本殿の前面と丁字形を成して居る。桁行六閒、梁閒一閒、屋根切妻造杮葺、妻部を正面に北向に建つて居る。前後の兩面は柱閒を開放し、左右兩側面は中閒を開け放ち、長押上及腰貫下は板張になつて居り、內部は床が板張となつて居る。梁上には雄大な板蟇股を置き地棟を支へて居る。その構造手法雄大にして、桃山初期の特徵を備へて居る。

邊津宮本殿[國寶] 天正六年大友氏の再建、五閒社流造、屋根杮葺、正面に三閒の向拜があり、北面して居る。向拜の柱は角柱なるも本殿には圓柱を用ゐ、妻部は虹梁上に叉首束を立てゝ居る。桝組は三斗及舟肘木を使用し、彫刻を有する蟇股がある。內部は前面一閒通りを外陣とし、こゝに神座がある。床はすべて拭板敷になつて居る。社殿の構造簡素にして、手法雄大、桃山初期の手法を示して居る。

  • 寳物
  • 狛犬[國寶] 一對 石造、高さ何れも一尺五寸九分。刀法の極めて鮮かな、形態の可なり變つた作である。口を開いた方(阿)は兒獅子を愛撫し、口を閉ぢた方(吽)は毬を抱へた玉取獅子で方形臺座の四方に唐草文樣が現されてある。兩者の背には「奉施人宗像宮第三御前寶前建仁元年辛酉藤原友房」の銘文が風鐸型の劃內に刻書されて居る。この銘文によつてこの狛犬は建久七年に成つた東大寺の狛犬に次いで我が國に現存せる宋風石造狛犬の最古のものであることが明かにされて居る。
  • 狛犬[國寶] 一對 木造、高さ約二尺五寸、全身の彩色は剝落して居るが口內の朱色齒牙の金色等が殘つて居る。兩者とも前脚を力强く突き出して踢まり、阿像の方は口を開き、吽像の方は頭上に一角を有し、ロを堅く閉ぢて居る。形は前者よりも奇拔で卷毛、五指等に一種の形式があり、全體に素朴にして刀法簡潔遒勁である。鐮倉時代の作と思はれる。
  • 經石[國寶] 石造、境內の小堂內に納められて居る。上に屋根形の石を載せ碑身は中央に阿彌陀佛の坐像を半肉彫で現はし、その上に彌陀の六字名號を橫書きに陰刻し、更にその上に彌陀四十八願中の第十八、十九、廿三の三願文を陰刻し、裏面には阿彌陀經全部と往生淨土の呪文とが四段に陰刻されて居る。この經石は平重盛が育王山に沙金を寄進した答禮として、建久九年に支那から贈られたものであると傳へて居るが、兎に角鐮倉時代に宋から來たもので阿彌陀佛の彫法に立體的の感があり、螺髮の大な渦卷や顏の表現に我が國の彫像と異つた特色の顯著なもので、經石として他に類例のないものである。尙碑身の兩側には種々の銘文が刻書され、その中には大宋紹熙六年己卯孟陽日とか、檀那宗像大宮司等の文があり、また承久二年嘉禎三年等の鐮倉時代の年號のある追銘が見えて居る。

宗像・福津のみどころ