門司港

門司港
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

港界は白木崎の西北924mのところから門司崎に引いた一線と白木埼の西北924mのところから正南924mのところに引いた一線およびその線の南端から一番橋川口に引いた一線との三線を境界とした範囲内です。

大正8年(1919年)から昭和6年(1931年)まで前後13年の年月と工費525万円を費してできあがった岸壁には、3,000~1万トン級の巨船を同時に8隻まで繋留することができ、東西両洋に通じる外国貿易港として世界的地位を占めるに至りました。

港内は潮流極めて激しく碇泊航行ともに困難な上、ところどころに暗礁浅瀬があり、自然的には港として不便も少なくありませんが、西日本の関門として、交通上地の利があるため、内外に対する経済上の地位は実に良好で、出入船舶の多いことでは正に日本一でその状況は知られているとおりです。

鉄道省工務局関門派出所の調査によれば、潮の流れの速度は大潮の時約11km、小潮の時約6.5kmで、春の大潮はまた格別速く約13kmに達しています。海峡の最も深いところは15mあり、通峡する船舶の数は1日平均外海から瀬戸内海に向かうものが汽船100隻、帆船胴船210隻、反対に瀬戸内海から外海や九州に向かう汽船110隻、帆船胴船340隻、艀船20隻で、1日平均の通峡船舶は約800隻という数に上っています。

入港船舶は神戸、大阪、横浜を凌いで日本諸港の首位を占め、昭和6年の総トン数で3,200万トン近くになります。

貿易額は明治32年(1899年)に700万円未満でしたが、昭和8年(1933年)には1億円を超えて神戸、横浜、大阪に次ぎ、輸出額約4,700万円、輸入6,200万円弱です。輸出品はセメント、履物等を、輸入品は繰綿、鉄および鉄鉱等を、輸出先は関東、中国、英領インド等、輪入元はアメリカ、海峡植民地、満洲国等を主とします。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
門司港
かな
もじこう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
福岡県北九州市門司区港町
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

港界は白木崎の西北九二四米のところより門司崎に引きたる一線と白木埼の西北九二四米のところより正南九二四米のところに引きたる一線及その線の南端より一番橋川口に引きたる一線との三線を境界となしたる範圍內である。

大正八年から昭和六年まで前後十三年の年月と工費五百二十五萬圓を費して出來上つた岸壁には、三千噸乃至一萬噸級の巨船を同時に八隻まで繋留するを得、東西兩洋に通ずる外國貿易港として世界的地位を占めるに至つた。

港內は潮流極めて激しく碇泊航行共に困難なる上、所々に暗礁淺瀨があり、自然的には港として不便も少くないが、西日本の關門として、交通上地の利を得て居るから、內外に對する經濟上の地位は實に良好で、出入船舶の多いこと正に日本一でその狀織るが如くである。

鐵道省工務局關門派出所の調査に依れば、潮の流れの速度は大潮の時約一一粁、小潮の時約六粁半で、春の大潮はまた格別速く約一三粁に達して居る。海峽の最も深い處は一五米あり、通峽する船舶の數は一日平均外海から瀨戶內海に向ふものが汽船百隻、帆船胴船二百十隻、反對に瀨戶內海から外海や九州に向ふ汽船百十隻、帆船胴船三百四十隻、艀船二十隻で、一日平均の通峽船舶は約八百隻と云ふ數に上つて居る。

入港船舶は神戶、大阪、橫濱を凌いで我が國諸港の首位を占め、總噸數(昭和六年)三千二百萬噸に近い。

貿易額は明治三十二年に七百萬圓未滿であつたが、昭和八年には一億圓を超えて神戶、橫濱、大阪に次ぎ、輸出額約四千七百萬圓、輸入六千二百萬圓弱である。輸出品はセメント、履物等を、輸入品は繰綿、鐵及鐵鑛等を、輸出先は關東州、支那、英領印度等、輪入元は米國、海峽植民地、滿洲國等を主とする。

門司のみどころ