毛越寺

毛越寺址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

平泉駅の西約900mの山麓にあります。現在の毛越寺本堂の東に南大門跡があり礎石が整然として遺存します。ここから東に土塁が連なり、現在の山門のそばで北折し山際に至りさらに西折しています。この土塁の内部門跡の北には東西に長く大泉池があり、中島がわずかに水面に現れています。その西北に山容の優美な塔山があり、山麓と大泉池の間に23の堂宇があります。この地域は旧伽藍の主要建造物があったところです。土壇上に五間四面径約1.5mの大礎石が旧規のままに残存しこれが金堂円隆寺跡です。現在壇上に小堂があり。薬師仏を安置しています。その前面左右に鼓楼、鐘楼の跡があり、いずれも礎石が点在して金堂の側面からこの両楼に連なった廻廊の土壇礎石がまだわずかに残っています。鼓楼跡の西に経蔵の跡あり、金堂跡の西北に講堂の土壇が残り、礎石が皆残っています。

さらにその西に大土壇があり、壇上大礎石が位置を変えず遺留し、五間四面(廻縁付)の大堂宇の跡が見えるのは根本中堂であった嘉祥寺の跡です。金堂の東隣にある桁行梁間ともに五間、単層草葺の堂宇は江戸時代再建の常行堂で、その前方に鐘楼の仮屋があります。常行堂の東に法華堂があり礎石が点在します。なお常行堂の後方土塁の外側に東面した弁天堂があり、大泉池の西畔に近年竣工した宝物館があります。この一区画の東隣道を隔てて老松の繁茂する土壇は観自在王院の旧跡で、現在二宇の小堂が前後してあります。元大阿弥陀堂のあった位置で、その東に小阿弥陀堂の跡があります。この遺跡の南の田圃は一段と低く一区画をなして中に小丘を残しています。ここは舞鶴池の跡で旧池畔のところどころに庭石を遺存します。なお小阿弥陀堂跡の北には基衡の妻の墓と伝わるものがあります。

このように旧毛越寺主要伽藍の礎石はほとんど旧規のままに残り、よくその最盛期の壮観を偲ばせます。寺は主として藤原基衡の建立となり、嘉祥寺は竣工に先立ち基衡が没したのでその遺志を継いで造立し、また観自在王院は基衡の妻の建てたものです。さらに周囲には総社、日吉、白山、祇園、北野、稲荷など当時都で信仰の盛んであった神を勧請して鎮守とし、その宏壮な規模ははるかに中尊寺を凌駕した平泉第一の大伽藍で、奥州藤原氏の富栄を示してあまりありましたが、以後次第に衰微を重ね今はわずかにその遺跡が残り、史蹟に指定されています。

観自在王院跡の北に千手院と号する草庵があります。元舞鶴池の中島に建てられた鉄塔の塔身および台座を所蔵します。塔身には室町時代の文和4年(1355年)の銘文があります。さらに千手院の北金鶏山の東麓に総社金峯山の跡があります。その付近に大礎石十数個点在し古瓦の破片を散在します。その礎石古瓦などによって藤原氏以前に営まれた廃寺の跡と察されますが、草創沿革についてはなんら伝わるものがありません。

※底本:『日本案内記 東北篇(初版)』昭和4年(1929年)発行

令和に見に行くなら

名称
毛越寺
かな
もうつうじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
岩手県西磐井郡平泉町字大沢58
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の西約九〇〇米の山麓にある。今の毛越寺本堂の東方に南大門址があり礎石が整然として遺存する。これから東方に土壘が連り、今の山門の傍で北折し山際に至り更に西折して居る。この土壘の內部門址の北には東西に長く大泉池があり、中島が僅に水面に現はれて居る。その西北方に山容の優美なる塔山があり、山麓と大泉池の閒に二三の堂宇がある。この地域は舊伽藍主要建造物のあつた處である。土壇上に五閒四面徑約一米半の大礎石が舊規の儘に殘存しこれが金堂圓隆寺址である。今壇上に小堂があり。藥師佛を安置して居る。その前面左右に鼓樓、鐘樓の址があり、何れも礎石點在して金堂の側面からこの兩樓に連つた廻廊の土壇礎石がまだ僅に殘つて居る。鼓樓址の西に經藏の址あり、金堂址の西北に講堂の土壇を存し、礎石が皆殘つて居る。

更にその西方に大土壇があり、壇上大礎石が位置を變ぜずして遺留し、五閒四面(廻緣付)の大堂宇の址を見るは根本中堂であつた嘉祥寺の址である。金堂の東鄰にある桁行梁閒共に五閒、單層草葺の堂宇は江戶時代再建の常行堂で、その前方に鐘樓の假屋がある。常行堂の東に法華堂があり礎石が點在する。尙常行堂の後方土壘の外側に東面せる辨天堂があり、大泉池の西畔に近年竣工した寶物館がある。この一區劃の東鄰道を隔てゝ老松の繁茂せる土壇は觀自在王院の舊址で、今二宇の小堂が前後して存する。元大阿彌陀堂のあつた位置で、その東に小阿彌陀堂の址がある。この遺址の南方の田圃は一段と低く一區劃をなして中に小丘を殘して居る。こゝは舞鶴池の址で舊池畔の處々に庭石を遺存する。尙小阿彌陀堂址の北方には基衡の妻の墓と傳ふるものがある。

このやうに舊毛越寺主要伽藍の礎石は殆ど舊規の儘に存し、よくその盛時の壯觀を憶はしめる。寺は主として藤原基衡の建立にかゝり、嘉祥寺は竣工に先ち基衡が歿したのでその遺志を繼いで造立し、また觀自在王院は基衡の妻の建てたものである。更に周圍には總社、日吉、白山、祇園、北野、稻荷など當時都で信仰の盛んであつた神を勸請して鎭守となし、その宏壯なる規模は遙に中尊寺を凌駕した平泉第一の大伽藍で、奧州藤原氏の富榮を示して餘あつたが、爾後次第に衰微を重ね今は僅にその遺址を存し、史蹟に指定されて居る。

觀自在王院址の北に千手院と號する草庵がある。元舞鶴池の中島に建てられた鐵塔の塔身及臺座を所藏する。塔身には文和四年の銘文がある。更に千手院の北金鷄山の東麓に總社金峯山の址がある。その附近に大礎石十數個點在し古瓦の破片を散在する。その礎石古瓦などによつて藤原氏以前に營まれた廢寺の址と察せられるが、草創沿革に就いては何等傳はるものがない。

平泉・一関のみどころ