多賀城跡

多賀城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

(前半テキスト不明)2面は深い断崖に隔てられ、周囲に土塁を巡らし、中央に土壇があります。この地は正庁の跡で礎石が点在しています。その西部は「御座ノ間」と呼ばれ、吉野時代義良親王の御座所であったと伝えています。また内城の後方土塁外をはじめその北の多賀社小祠の後方などにも礎石が点在しています。東北隅外には奏社宮があり、多賀国府に属した総社の名残を留めるものとされます。その他城内随所からは当時の屋根瓦をはじめ陶器、土器、鉄鏃、石帯、管玉など多数の遺物が発見され、現在城内西南隅に近い菊池邸に保管されています。同邸は明治9年(1876年)明治天皇御巡幸の際に滞在されたところです。その東北の道路のそばに弘安10年(1287年)銘記の供養碑があります。また内城の南麓に近く玉川寺(玉泉寺)跡があります。本城は奈良時代蝦夷征服のために築かれ、鎮守府を置き、陸奥国府もまた併置されたところで、東北地方における最も重要なる旧跡で史蹟に指定されています。

※底本:『日本案内記 東北篇(初版)』昭和4年(1929年)発行

令和に見に行くなら

名称
多賀城跡
かな
たがじょうあと
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
宮城県多賀城市市川
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

二面は深き斷崖に限られ、四圍に土壘を繞らし、中央に土壇がある。この地は正廳の址で礎石が點在して居る。その西部を「御座ノ閒」と稱へ、吉野時代義良親王の御座所であつたと傳へて居る。また內城の後方土壘外を始めその北方多賀社小祠の後方などにも礎石が點在して居る。東北隅外には奏社宮があり、多賀國府に屬した總社の名殘を止むるものと云はる。その他城內隨所よりは當時の屋根瓦を始め陶器、土器、鐵鏃、石帶、管玉など多數の遺物が發見せられ、今城內西南隅に近い菊池邸に保管せられて居る。同邸は明治九年明治天皇御巡幸の砌駐輦を辱うした所である。その東北道路の傍に弘安十年銘記の供養碑がある。また內城の南麓に近く玉川寺(玉泉寺)址がある。本城は奈良時代蝦夷征服のために築かれ、鎭守府を置き、陸奧國府もまた倂置せられた處で、東北地方に於ける最も重要なる舊址で史蹟に指定せられて居る。

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